朝拝(十戒講解1) 2006 /08/27
『自由の道しるべ』

出エジプト20:1-17

 この朝から新たに出エジプト記20章に記された主なる神の戒めの御言葉、「十戒」を通して、今日を生きる私たちへの主からの語りかけを聞き始めていきたいと願っています。そこでこの朝は、私たちが旧約聖書において示されている律法の中心とも言うべき十戒を学ぶことがいったい何を意味するかをご一緒に確認しておきたいと思います。

(1)戒めを学ぶ
 1節、2節。「それから神はこれらのことばをことごとく告げて仰せられた。『わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である』」。
 私たちはすでに夕の礼拝において使徒信条、主の祈り、そして十戒を取り上げて学んできました。さらに主の祈りについては昨年の夏の時期に改めて学び、こうして今回は再び十戒を取り上げて、秋から冬へと向かう日々、この御言葉に聞いていこうとしています。この使徒信条、十戒、主の祈りというものは、しばしば私たちの信仰の骨格を形作る三つも大切な言葉として代々の教会において重んじられてきたものです。なかでも十戒は旧約聖書において主なる神がご自身の民イスラエルに向けて与えられた戒めの言葉でありながら、時代や文化を超えて人間たちが守るべき基本的な戒めとしての普遍性をも持っているという点できわめて重要なものといえるでしょう。しかし一方で、かつての旧約の時代のように律法を守ることによって救われる時代であればいざ知らず、今日、すでに律法によらず恵みによって、ただ主イエス・キリストの十字架による救いを信じるだけで救われるという新約の時代に生かされている私たちにとって、なおこの戒めの言葉を学ぶことにどんな意義があるのか、ということも決して小さくはない問題です。確かに、今この恵みの時代を生きる私たちにとって律法はもはや過ぎ去ったもの、廃棄されたものであると聖書は語ります。しかし、一方で主イエス・キリストによる救いにあずかった私たちにとっては、そこがゴールなのではなく、そこからさらに主イエス・キリストに結ばれた者として、栄光の主イエスの似姿にまで変えられていくための生涯が続くのであり、救いを与えてくださった神に感謝の応答をささげながら、罪赦された者として、自由なる道を歩んでいくのであり、そのためのまさに「自由の道しるべ」として、十戒を受け取ることができるのです。
 このように、私たちはキリストの福音を知らされた者として、またその福音の喜びに与った者として、いまこの旧約の掟を学ぶのであって、そうでなければ旧約は私たちにとってもはや過ぎ去ったもの、まして十戒など現代の社会においてはほとんど死せる掟となるか、せいぜい、道徳倫理の徳目に数えられるにとどまるでしょう。しかし私たちはこれを主イエス・キリストの父なる神、そして私たちの救いの神への感謝と献身、服従の道として歩んで行きたいと願うのです。そしてその歩みの中で、繰り返し繰り返し主イエス・キリストの十字架を思い、その御前で罪赦された自らの罪ともしっかりと向き合って行きたいと願うのです。

(2)自由の道しるべ
 そこで、少しずつ十戒の中身へと進んで行きたいと思いますが、まずは十戒全体の構造と、第一の戒めに先立つ序文に込められた意味を通して、私たちに戒めを与えたもう神が、私たちを愛し、いつくしんで下さる契約の神であられることをともに学んでおきたいと思います。十戒について、旧約聖書はしばしば「二枚の石の板」、「二枚のあかしの板」という表現を用います。これはこの後の31章18節から来た言い方です。「こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた」。しかしシナイ山から下りたモーセは金の子牛の像の前で戯れるイスラエルの姿に激怒し、その板を打ち砕いてしまいました。これは32章19節でのことです。しかしその後、34章に入って再び主なる神が石の板を与え、契約を再確認してくださったのです。
 さて、この二枚の板に、十の戒めがどのように分けて記されていたのかを聖書は語りませんが、内容から言うならば、十戒は大きく二つの区分を持っていると言えるでしょう。すなわちそれは主なる神様と私たちとの関係についての戒めと、私たちと私たちの隣人との関係についての戒めということです。これは後に、新約の時代において主イエス・キリストご自身が教えてくださった内容の区分でもあるのです。主イエス・キリストはマタイ福音書22章36節以下でこう言われました。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」。ですから代々の教会も、旧約律法全体の要約が十戒であり、十戒の要約がこの主イエスの教えられた「神を愛すること」、「隣人を愛すること」という分かちがたく結びついた愛の教えにあることを堅く保ち続けているのです。

(3)「あなたの神、主」
 最後に十戒の序文の言葉に注目しましょう。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」。これは通常、十戒の序言とよばれるものですが、実はこの部分が十戒全体を括る非常に重要な意味を持っているのです。つまり「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と主張される神は、単なる神一般ではなく、「あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した」救いの神であり、「主」なるお方として、私とこの世界を創造された創造の神であり、そして具体的な歴史の中で創造と救いの御業を成し遂げられる神であり、何よりも、そのようにして「あなたの神」、私の神として、私たち人間との間に交わりを持ちたもう契約の神であられるということなのです。このように私たちを創造し、私たちを救い、私たちと交わりを持ち、具体的に「わたしはある」という「名」をもってご自身を示したもう生ける神、その神がご自身の愛する者たちに対して求めておられる戒めが十戒なのです。
 ですから宗教改革者カルヴァンは「この神が私たちの救いの神であるゆえに、十戒はこの神の愛に応えて、私たちも神の従順な民であることを示すのである」と述べています。ここにこの戒めのもとにある私たちの姿勢が現れていると言えるでしょう。すなわち、私たちはこの戒めを救いを満たす条件として、律法の言葉として聞くのではなく、どこまでも、創造と救いの神、契約に基づく愛の神への自由なる服従と感謝の言葉、福音の言葉として聞くのです。「せねばならぬ」といやいやながら、恐る恐る言い表すのではなく、私たちを愛してくださる神の御心に近づいていくための応答の言葉として言い表すのです。
 確かに、救われてなお私たちはこの実に基本的とも言える神へと戒め、隣人への戒めの、どれ一つをとっても完全に守れるものではありません。絶えずその前に立つ時に、自らの不完全さ、罪深さ、ふがいなさに心締め付けられるものです。しかしそれだからといってこの戒めから遠ざかるのではなく、ますます聖霊の助けを求めつつ、神の御前に導かれていくものでありたいと願うのです。使徒パウロは言います。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。この愛によって愛されていることを覚えつつ、この愛に応えて自由なる道を歩むそのようなお互いでありたいと願います。
 ヨハネ福音書8章31節、32節。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」。



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