ハイデルベルク信仰問答による説教その51 2013/05/05
『赦された者として』

マタイ18:21-22

 今晩は主の祈りの第五の祈願である罪の赦しを求める祈りを通して、赦された者として赦し合う新しい交わりの姿について、御言葉からご一緒に教えられてまいりましょう。

(1)我らの罪を赦したまえ
 ハイデルベルク信仰問答による説教も、今晩を含めて残り二回となりました。この信仰問答は元来、ドイツの領邦国家の一つであったプファルツ選帝侯国で生み出されたもので、16世紀のプファルツの教会規則には、朝の礼拝でこのカテキズムを朗読することと、午後の礼拝でこのカテキズムに基づいて説教することが定められていました。その規定によると大体一年間に、朝の礼拝で九回全体が朗読され、夕の礼拝で一回は全体が説教されることになります。それほどに当時の教会はこのカテキズムによって信仰を整え、礼拝を整え、教会を整えていったのです。
 さて今晩取り上げる第51主日では、主の祈りの第五の祈願である罪の赦しの問題が扱われます。まず第126問を見ましょう。「問:第五の願いは何ですか。答:『我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ』です。すなわち、私たちのあらゆる過失、さらに今なお私たちについてまわる悪を、キリストの血のゆえに、惨めな罪人である私たちに負わせないでください、私たちもまた、あなたの恵みの証しを私たちのうちに見出し、私たちの隣人を心から赦そうと固く決心していますから、ということです」。
 この祈りは、私たちのかつての罪と今の罪に関わっています。それで「私たちのあらゆる過失、さらに今なお私たちについてまわる罪」と言われるのですが、それは私たちが生まれながらにして持っている罪の性質、信仰問答でいえば第8問の「どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いている」姿を現しています。しかしそのような私たちを父なる神は、御子イエス・キリストの贖いによってその罪を赦してくださいました。同じく第56問が次のように教えている通りです。「問:『罪の赦し』について、あなたは何を信じていますか。答:神が、キリストの償いのゆえに、私のすべての罪と、さらに私が生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義を私に与えて、私がもはや決して裁きに会うことのないようにしてくださる、ということです」。このように、私たちの過去のあらゆる罪、生まれながらの罪人としての性質を身に負った古き人は罪赦され、義と認められ、救われて、その罪は主イエスの十字架の血によって贖われたのでした。
 しかしそれで私たちの罪との戦いが終了するかといえばそうではありません。「今なお私たちについてまわる罪」と言っているように、聖化の途上にある私たちにとっては救われた今もなお罪との戦いは続くのであり、それゆえに私たちは日々、御前に感謝と悔い改めをなし、そして礼拝のたびごとに罪の告白を御前に為し、赦しの宣言をいただくのです。そうして一日一日、一歩一歩と進んでいく信仰の営みの中で、第115問にあるように「私たちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになる」のであり、「そうして私たちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆく」のです。

(2)赦された者として生きる
 次に、私たちが主の祈りを祈る時にしばしば抱く素朴な疑問として、この第五の祈願の前半部と後半部の繋がり方をどのように理解するかということがあるのでしょう。その繋がり方次第では、「私が他人の罪を赦したので私の罪も赦して下さい」と他者の赦しが自らの赦しの条件のようになり、「私の罪が赦されるためには、まず私が赦さなければならない」とこれを律法のようにしてしまったり、あるいは主に罪を赦して頂くことに先んじて、私が他の人を赦すことができるかのような錯覚に陥ってしまうことがあります。そこではっきりとさせておかなければならないことは、私たちが隣人の罪を赦すことができるから、私も主によって赦されるのではなく、また私が隣人の罪を赦すことができなければ、私も主によって赦されることはない、ということでもないということです。
 この点について信仰問答は次のように言います。「私たちもまた、あなたの恵みの証しを私たちのうちに見出し、私たちの隣人を心から赦そうと固く決心していますから、ということです」。つまり、隣人の罪の赦しは、自分自身の罪の赦しの原因や条件なのではなく、自分自身の罪が赦されたことの感謝を伴う決断的な応答であるということです。この「私たちの隣人を心から赦そう」とする固い決心、決断は私たちの内に自然と生じてくるものではありません。むしろそれはハイデルベルクが正しくも「あなたの恵みの証し」と言っているように、罪赦されて救われた者たちの中に主が与えてくださる恵みです。今晩開かれているマタイ18章21節、22節の御言葉を読みましょう。「そのとき、ペテロがみもとに来て言った。『主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。』イエスは言われた。『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』」。ここで言われているのは、無限の赦しということです。七度を七十倍とは、律法の規定を超えて限りなく、幾度でも赦せ、ということです。実際に罪の赦しの回数を数え上げている時は、実際にはまだ赦せてはいないのでしょう。この後には大きな負債を赦してもらった人が、自分への借金を負っていた人を赦すことができないというたとえが語られていますが、主イエスはここで私たちに、赦された者として赦しの中を生きよ、と語っておられるのです。
 かつては自己中心の罪の中にあって、赦されるはずもないような大きな負債を抱えていた私が、主イエス・キリストの十字架の贖いによってその罪を赦していただいた。その赦しの恵みを感謝して歩み始めた時に、気付くと隣人を心から赦す思いが備えられるようになっていく。それこそが私自身がすでに罪赦されてあることの確かなしるしであり、証しなのだというのです。ゆえに隣人の罪の赦しは自らの罪の赦しの応答であり、恵みの証しであり、決断的な応答であるということができるのです。赦すことのできる人は赦された恵みを経験する人です。悔い改めと告白の祈りの中で、この自分自身が主によって罪赦されたという赦しの体験、恵みの経験が、私をして隣人を赦す愛へと促すのであり、主の御前に罪赦されていることを確信する時に、私たちは隣人の罪を赦すことへと心動かされていくことができるのです。

 



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