ハイデルベルク信仰問答による説教その45 2013/03/03
『子としての祈り』

ルカ11:9-13

 今晩からいよいよハイデルベルク信仰問答の最後のパート、「主の祈り」の説き明かしに進んでいきます。今晩は主イエスが教えてくださった祈りの言葉から、神を父として持つ子としての幸いをともに教えられてまいりましょう。

(1)祈りの必要
 ハイデルベルク信仰問答は全体が三つの部分からできています。第一部では私たちがどれほど罪と悲惨の中にあるかを教え、第二部ではその罪と悲惨から私たちを救い出すために神が何をしてくださったかを教え、そして第三部では救われた私たちが神にどのように感謝を表して生きるのかを教えています。この第三部の中で十戒が説き明かされ、そして今日からは「主の祈り」が説き明かされるのですが、まず第116問では祈りの必要について次のように教えられます。「問:なぜキリスト者には祈りが必要なのですか。答:なぜなら、祈りは、神がわたしたちにお求めになる感謝の最も重要な部分だからです。また、神が御自分の恵みと聖霊とを与えようとなさるのは、心からの呻きをもって絶えずそれらをこの方に請い求め、それらに対してこの方に感謝する人々に対してだけ、だからです」。
 このように祈りとは神への感謝の最も重要な部分です。多くの人は意外に思うかも入れません。なぜなら多くの場合、祈りとは「願い」だと思うからです。けれども信仰問答は祈りの本質を「感謝」と言います。そこではすでに「祈りは聞き届けられている」という確信が先取りされているのだと言えるでしょう。こちらが願ったとおりになるかどうかだけの基準で祈りの世界を計るなら、感謝は出て来ません。むしろ私たちの願いを越えて神の最善がなされると信じるとき、祈りの世界を覆うのは「感謝」なのです。それでは神に聞かれる祈りとはどのようなものでしょうか。続く第117問を見ましょう。「問:神に喜ばれ、この方に聞いていただけるような祈りには、何が求められますか。答:第一に、御自身を御言葉においてわたしたちに啓示された唯一のまことの神に対してのみ、この方がわたしたちに求めるようにとお命じになったすべての事柄を、わたしたちが心から請い求める、ということ。第二に、わたしたちが自分の乏しさと悲惨さとを深く悟り、この方の威厳の前にへりくだる、ということ。第三に、わたしたちがそれに値しないにもかかわらず、ただ主キリストのゆえに、この方がわたしたちの祈りを確かに聞き入れてくださるという、揺るがない確信を持つことです。それは、神が御言葉においてわたしたちに約束なさったとおりです」。ここでは神に喜ばれ聞いていただける祈りが、第一に神に求めるようにと命じられたものを求める祈りであること、第二に神の御前にへりくだった祈りであること、第三に神が私たちの祈りを確かに聞き入れてくださるとの御言葉の約束を確信した祈りであることが教えられます。

(2)子としての祈り
 このような神との祈りの交わりを可能にするもの、それが「子としての祈り」ということです。第118問。「問:神はわたしたちに、何を求めるようにとお命じになりましたか。答:霊的また肉体的に必要なすべてのことです。主キリストは、わたしたちに自ら教えられた祈りの中に、それをまとめておられます」。
 ルカ福音書にある主の祈りは「父よ」との呼びかけで始まります。ここには祈りにおける神と私たちとの近さが表されていますが、その何よりのあかしが続く9節から13節です。「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」。このように私たちと神様との祈りの交わりは、このように愛するわが子に良き物を賜る父親との関係のようなものだと主イエスは言われます。それで私たちは願いよりも感謝の祈りに導かれながら、父なる神に「霊的また肉体的に必要なすべてのこと」を率直に申し上げることができるのです。

(3)神を父と呼ぶ
 神を「父よ」と呼ぶこと。これは決して当たり前のことではありません。確かに旧約聖書においても主なる神が「父」と呼ばれることはあり、またユダヤ教伝統においてもそのような習慣があったと言われるのですが、しかしそれでも神を「アバ、お父さん」と幼い子どもが呼びかける親しい言葉で神を呼ぶことはあり得ませんでした。すなわち、ここで主イエスが「父よ」と呼ぶ祈りは、そのような神との新しい関係、神を「お父さん」と呼ぶことの出来るような親密で愛に満ちた交わりの関係を作り上げる言葉であったのです。この父としての神の私たちに対する姿は権威の象徴としての「父」ではなく、むしろ愛と慈しみに満ちた「お父さん」としての姿なのです。
 主の祈りの新しさは神を父と呼ぶことにとどまらずこの主イエス・キリストの父なる神を、私たちの父よと呼ぶことが出来るという驚くべき事実にこそあります。それはただ神の救いのご計画により、御子イエス・キリストの贖いのゆえに、子としてくださる聖霊による恵みです。この救いの御業によって主イエス・キリストの父は、我らの父となりたもうのです。この消息を使徒パウロは次のように言っています。ガラテヤ4章6節。「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わして下さいました」。このようにかつては罪と滅びの中にあった私たちが父なる神の選びに基づき、御子イエス・キリストの贖いにより、聖霊の働きの中で神の子とされた。それゆえに私たちは今大胆にも主イエス・キリストの父なる神を「我らの父よ」と呼ぶことの出来る子としての身分を与えられているのです。父なる神は私たちが「お父さん」と呼びかけることを待っていてくださるお方です。「父よ」との呼びかけは、そこに応答を求める呼びかけであり、父であられる神は、その呼びかけに答えてくださり、私たちの祈りを聞き届けてくださる生けるお方なのです。

 



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