ハイデルベルク信仰問答による説教その44 2013/02/24
『義を慕い求めて』

詩篇139:23-24

 今晩は十戒の最後である第十の戒めと、十戒全体の心を説くハイデルベルク信仰問答を手引きに、主なる神の義を慕い求めて生きる信仰者の生き方を、ともに御言葉から教えられてまいりましょう。

(1)義を慕い求めて
 十戒の第十の戒めはこうです。「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち、隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」。ここでは殺人、姦淫、盗みといった外側に表れる罪の問題から、さらに踏み込んで、私たちの心の内側に奥深く潜む欲深さ、むさぼりの罪が鋭く問われています。この戒めについて、信仰問答の第113問は次のように説き明かします。「問:第十戒では、何が求められていますか。答:神の戒めのどれか一つにでも逆らうようなほんのささいな欲望や思いも、もはや決してわたしたちの心に入り込ませないようにするということ。かえって、わたしたちが、あらゆる罪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということです」。隣人の家を欲しがる罪、それは単に隣人の所有物や財産にとどまらず、隣人の妻やその暮らし向きへの秘められた欲望です。この欲望が頭をもたげてくるのは、私たちの中に自らの生活への満足や感謝が消え失せ、隣人の幸せへに対する羨みや妬み、悪しき欲が生じてくる時なのです。それは上手に隠し通すこともできるでしょうし、実際に手に入れようと盗みを働くところにまでは進まないかもしれない。けれども心密かに隣人の家を欲し続ける、隣人の妻を欲し続ける、隣人の生活を欲し続けることの孕む罪深さについて、聖書が警告することは、それが隠されているがゆえに、深刻な罪であることを教えるためでもあるのです。
 私たちが秘やかなむさぼりの罪、どん欲の罪から抜け出して、明るい光の中を生きるにはどうすればよいのか。信仰問答は「わたしたちが、あらゆる罪には心から絶えず敵対し、あらゆる義を慕い求めるようになる、ということ」と教えます。今晩開かれている詩篇139篇23節、24節にこうあります。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください」。私たちの隠し持つ心の内の秘やかなところ、それは同時に主なる神の前からも隠し持っておきたい罪の置き場所にもなりうるところです。しかし詩人はそういう自らの弱さを知っているのでしょう。敢えてその心の内をこそ、神に探り、知ってくださいと祈り求めています。それは同時に主なる神の義を慕い求める祈りでもあるのでしょう。私たちに必要なことは、自分自身の本当の姿を神に知っていただくことであり、また私たちがどん欲に求めるべきは、神の義しさなのです。「義を慕い求める」。このことは真の満足を得た者が初めて転じることのできる生き方であると言えるでしょう。 
 自らが不義で罪ある者であったにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架の贖いによって今や恵みにより信仰によって義なる者とされている。そうして私たちが自分自身がキリストのものとされていることに生と死における唯一の慰めを見出した時、私たちは本当の意味での生きること、生かされていることへの深い満足に溢れることができるのです。

(2)義とされ、聖とされていく歩み
 続く第114問と第115問はハイデルベルクの十戒論のまとめの箇所で、とても大切なことが教えられています。第114問。「問:それでは、神へと立ち返った人たちは、このような戒めを完全に守ることができるのですか。答:いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません。とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」。私たちはすでに主にあって義なる者とされていますが、しかしこの地上にあっては罪との戦いが続いています。その意味では律法への服従を「わずかばかり始めたにすぎません」。では罪との戦いを放棄して「どうせ律法を守れはしない」と諦めてしまうのかといえば、そうではない。「とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」。この「わずかばかり始めたに過ぎない」、「とは言え、現に始めている」という両面が重要です。ここでは信仰者の罪の現実に対する二つの誤った考え方が退けられているのです。すなわち罪との戦いに対して最初から諦めてしまっている敗北主義と、自らをもってすでに罪に対して完全な勝利を得ているとしてしまう完全主義という考え方です。ここには救われてなお罪と真摯に向き合い、日々悔い改めつつ恵みにすがり、神への服従の生をわずかばかり始めたに過ぎないというへりくだりの姿勢と、しかしなお神の戒めに服従しつつ罪との戦いに果敢に挑んでいくという真剣な決意の姿勢とがあるのです。
 それでは人が救われてなお完全に守ることのできない律法が私たちに教えられることには、一体何の目的や理由があるのか。このことを第115問から学びましょう。「問:この世においては、だれも十戒を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまで厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。答:第一に、私たちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです」。
 ここで第115問は、前の第114問で静寂主義と完全主義を退けた後に、罪の赦しと義を求め、神のかたちへと新しくされていくために、十戒は今の私たちにとって重要な戒めであることを教えているのです。しかも第115問においては義認も聖化も「次第次第に」、「より〜に」、「いよいよ」という完成に向かうプロセスを大切にしています。義認と聖化の恵みにあずかる信仰者の歩みは、罪との真剣な戦いの生涯であると同時に、主なる神の御顔を仰ぎ、日々、主の義を慕い求めて生きる歩みであり、またパウロがピリピ書3章13節、14節で「ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っている」と記したように、私たちを打ちのめすためのものでなく、むしろ励まし、生かし、主の御前へと進ませるためのものなのです。



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