ハイデルベルク信仰問答による説教その35  2012/12/02
『ことばによって神を見る』 

IIペテロ1:19

 今晩は、十戒の第二戒を説き明かす信仰問答の言葉に導かれながら、「ことば」によってご自身を啓示なさる主イエス・キリストのお姿を、御言葉を通してしっかりと見つめてまいりたいと願います。

(1)第二の戒め
 このところ参加したいくつかの集まりで、パワーポイントを使っての説教を聞く機会がありました。視聴覚に訴える点で分かりやすく、話の論旨が明瞭になるという点で大変刺激を受けました。その一方で、安易な用い方に流れるようになると、ある種の危険性が孕んでいるようにも思います。それは今日の信仰問答が扱う十戒の第二戒、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない」と関わる問題でもあるのです。今晩取り上げる信仰問答第35主日では、十戒の第二戒である偶像礼拝の禁止について教えられています。まず第96問を見ましょう。「問:第二戒で、神は何を望んでおられますか。答:わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならない、ということです」。十戒の第一戒がまことの神以外を神とすることを禁じているのに続いて、第二戒では正しい神礼拝以外の仕方で神を礼拝することを禁じています。
 ハイデルベルク信仰問答の解説を著したペリーという人がこういうことを述べています。「私たちは単に偽りの神々を拝む傾向にあるだけではなく、自らの真の神を偽りの像に仕立てることさえするのである」。このように私たちはまことの神を誤った仕方で礼拝することがあり、それもまた偶像礼拝であることを自覚する必要があります。天地万物を創造された主なる神は、この世界のあらゆる被造物によって表現されることのない、永遠、不変、無限なるお方です。ですからこのお方を私たちはいかなる表象をもってしても表現することはできないし、有限な線によって無限なる神を括ることは出来ないのです。このことは、しかし裏返してみれば、人間がいかに目に見えるものによって支配されやすいかを示しているとも言えるのです。出エジプト記32章の金の子牛のエピソードもこれを如実に示す出来事です。
 
(2)暗い所を照らすともしび、神の御言葉
 今晩開かれているIIペテロ1章19節の御言葉はこうです。「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです」。今日からアドベントを迎えていますが、ヨハネ福音書1章にあるように、御子イエス・キリストはことばが人となって来られたお方です。そしてまた今日の御言葉によれば、天に挙げられ、やがて再び来られる再臨の主、明けの明星であるイエス・キリストが来られるまでの間、今度は私たちは確かな預言のみことば、書かれた神の言葉である聖書の言葉を「暗い所を照らすともしび」として与えられており、その御言葉の説き明かしである説教を通して神を見るのです。
 信仰問答の第97問にはこうあります。「問:それならば、人はどのようなかたちをも造ってはならないのですか。答:神は決して模造されえないし、またされるべきでもありません。被造物については、それが模造されうるとはいえ、人がそれを崇めたり、またはそれによってこの方を礼拝するために、そのかたちを造ったり所有したりすることを、神は禁じておられるのです」。かつて古代の信仰者たちは「祈りの法が、信仰の法」と語りましたが、まさしくどのようにして神を礼拝するかが、どのようにして神を信じているかを証しすることになるのです。いつの時代にも人は真剣な思いで神を礼拝してきましたが、しかしいつのまにか人間の分かりやすい神礼拝の方法が優先されていくとき、偶像礼拝の危険が紛れ込んできたことを忘れてはならないでしょう。

(3)ことばによって神を見る
 しかし同時に、私たちが偶像による礼拝を拒絶するのは、目に見える物質世界を悪とし、目に見えない精神世界を善とするようなグノーシス的二元論に陥ることを意味していません。聖書の神は抽象的な精神世界の存在ではなく、この世界と歴史の中にご自身を啓示され、ご自身の民と関わり、そこに嫉妬の思いを抱くほどに愛を傾けられる生ける神であられます。ですから偶像礼拝の禁止は、いわばそこに生ける神の具体性が問われていると言えるのです。一体私たちは生ける神をどこに探すのか。どんなに美しくとも物言わぬ平面的なキリストの絵画の中にか、今にも動き出しそうな躍動感に溢れながらも、しかしそこに血の通った暖かみのない立体的なキリスト像の中にか。そうではないのです。主イエス・キリストは「私を見た者は父を見たのです」と言われます。主イエス・キリストにおいてのみ、生ける神がそのかたちをもって現れる。神を見たければ、イエス・キリストを見よ、ということなのです。しかもそれは絵画や彫像のキリストではない、聖霊において現臨される生けるまことの主イエス・キリストなのです。
 第98問は言います。「問:しかし、画像は、信徒のための書物として、教会で許されてもよいのではありませんか。答:いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自身の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです」。この時代、主イエス・キリストは御言葉の生きた説教によってご自身を鮮やかに示してくださいます。これは福音の説教を考える上で非常に重要なことです。神の御言葉が語られる時、そこにキリストの生き生きとした臨在が証しされる。聖礼典、特に主の晩餐も「見える御言葉」と言われる点で同様です。そこにキリストの臨在が証しされることが何よりの中心です。私たちの霊とまことをもっての礼拝は、真摯に神の生ける御言葉の説教に聞き、聖礼典に与ることによってあらわされ、そこに聖霊の神が働いてくださる時、私たちはあたかも主なる神を目の当たりに見るかのようにして、この神の臨在の前に立つことができるのです。

 



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