ハイデルベルク信仰問答による説教その30 2012/10/07
『赦しの食卓』

ヘブル7:27

 今日は10月第一主日で、朝の礼拝ではともに主の晩餐を祝いました。この夕べ、数回にわたって学んでいる主の晩餐の恵みについて、ハイデルベルク信仰問答第30主日の問答を手引きに、御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)一度切りの完全ないけにえ
 今晩与えられているヘブル書7章27節の御言葉は、御子イエス・キリストが私たちの大祭司として罪の贖いを成し遂げてくださったお方であるばかりでなく、自らが完全な贖いのいけにえとなってくださったことを教えています。「ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」とあるとおりです。
 今日取り上げる信仰問答の第80問はローマ教会のミサ聖祭の誤りを、この「一度切りの完全ないけにえ」という視点から問うています。「問:主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか。答:主の晩餐がわたしたちに証しすることは、イエス・キリスト御自身がただ一度十字架上で成就してくださったその唯一の犠牲によって、わたしたちが自分のすべての罪の完全な赦しをいただいているということ。また、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されている、ということです。この方は、今そのまことの体と共に天の御父の右におられ、そこで礼拝されることを望んでおられます。しかし、ミサが教えることは、今も日ごとに司祭たちによってキリストが彼らのために献げられなければ、生きている者も死んだ者もキリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、ということ。また、キリストはパンとブドウ酒の形のもとに肉体的に臨在されるので、そこにおいて礼拝されなければならない、ということです。このようにミサは、根本的には、イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定しており、呪われるべき偶像礼拝にほかなりません」。
 当時のミサ聖祭の教理では、キリストの犠牲はこの祭儀の度に繰り返されており、しかもキリストはミサ聖祭の度にパンとぶどう酒のもとにあるとされていました。しかし主の晩餐が指し示しているのは、主イエスの犠牲の反復ではなく、キリストがゴルゴダの十字架において成し遂げられたあの一度きりの完全な贖いの御業に、信じる私たちが聖霊によって結び合わされているという恵みの事実なのです。

(2)主の晩餐にあずかるふさわしさ
 次に信仰問答は、主の晩餐にあずかるふさわしさとはいかなるものかを問います。第81問。「問:どのような人が、主の食卓に来るべきですか。答:自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。
 信仰者の自己吟味には罪の自覚と悔い改めが必須です。しかし主の晩餐はいつも自分の罪を悲しみ、痛み、苦しみながら集う「改悛の食卓」ではありません。肝心なのは「〜しながらも」として、続く赦しの確信と信仰の励まし、生活の聖化への促しに繋がっていく点です。罪の悔い改めで立ち止まったままではなく、自分の罪を十分に自覚しつつも、主イエスの十字架を仰ぎ、そこからなお赦しを確信して聖化へと進む。主の晩餐とはまさに赦しの食卓なのです。聖霊が成し遂げてくださる信仰の道筋を捕らえる時に、私たちの自己吟味は単なる自己嫌悪に終わることなく、そこから赦しの道を辿り、天を仰ぎつつ信仰から信仰へと進んでいくことができるのです。 
 しかし続く部分で「しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と教えられます。礼拝の交わりの中に悔い改めない者、偽善者たちの存在があることを聖書は示しますが、それは終わりの日において明らかにされることですので、私たちはそれが一体誰であるかを知ることもできませんし、詮索することも許されていません。しかし、はっきりしているのはそのような人々は主の晩餐に与ることで自分に対する裁きを飲み食いしているということです。

(3)赦しの食卓に着かせるために
 第82問。「それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。答:いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリストの教会は、キリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで、鍵の務めによって閉め出す責任があります」。
 ここで触れられるのは、続く第31主日以降の「鍵の務めについて」で論じられる、いわゆる教会の訓練、または教会戒規の問題です。教会訓練、戒規は懲戒の手段ではありません。むしろ罪人を悔い改めに導き、主の許に立ち直らせ、再び主の晩餐の食卓の交わりの中に迎え入れるための手段であり、それによって主の食卓の聖さの保持とともに、その食卓が赦しの食卓であることをあらわすものでもあるのです。確かに教会の交わりの中心に御言葉と聖礼典が据えられていることで、その恵みに無造作に預かることは相応しくありません。主の御前に十分な自己吟味が必要です。しかし自己吟味を繰り返すだけならばいつになっても主の食卓に進み出ることはできないでしょうし、あるいは自分の罪に無頓着なままに軽々しく主の食卓に着く罪を犯しかねません。私たちは主の恵みの招きに与るたびごとに、自らを主の御前に深く省みて、十字架のめぐみを仰ぐ者でありたいと願います。そしてまた、人々を赦しの食卓に着かせるために、教会に与えられた鍵の権能、教会の訓練、戒規を正しく執り行う教会となっていきたいと願うのです。

 



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