ハイデルベルク信仰問答による説教その29 2012/09/30
『キリストとひとつになる』

ローマ6:5-11

 今晩は、引き続き主イエス・キリストの贖いの恵みを私たちに差し出してくださる主の晩餐の礼典の恵みを、ハイデルベルク信仰問答を手引きとしながら受け取ってまいりたいと思います。

(1)聖餐におけるキリスト
 主の晩餐において起こっていること、それは私たちがあのパンとぶどう酒を食するときに、私たちが天におられる贖い主イエス・キリストと聖霊によってひとつにされるということです。今晩与えられているローマ書6章は洗礼の恵みについて語られているところですが、そこで言われていることはそのまま主の晩餐の恵みにも繋がるものです。5節にこうあります。「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」。ここで使徒パウロの言う「キリストにつぎ合わされる」ということが、きわめて大切な事柄なのです。
 そこで今晩は第29主日の二つの問答を見ます。まず第78問を読みましょう。「問:それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。答:いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるのでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです」。ここで問題となっているのは、主の晩餐におけるパンとぶどう酒がキリストの体と血と呼ばれるのはいったいどのようなことなのか。そこで現実にパンとぶどう酒が変化するのか、という問いです。
 このような議論がなされる背景には、主の晩餐におけるキリストの臨在の様式を巡ってカトリック、プロテスタント、その内部を巻き込む大きな問題が横たわっていました。当時のローマ・カトリック教会においては、パンとぶどう酒が実体的にキリストの体と血に変化し、キリストは実質的にパンとぶどう酒という物素の中に存在するといういわゆる「化体説」が主張されました。これに対してプロテスタント教会においては大きく三つの立場がありました。第一はルターの立場です。ルターは主イエスが最後の晩餐の席で「これはわたしの体である」と言われた御言葉をそのまま受け取り、パンとぶどう酒が実体的に変化することはないにしても、それらの物素と「ともに」、物素の「中に」、物素の「下に」キリストが現臨されるといういわゆる「共在説」を主張しました。このようなルターの立場をカトリックに限りなく近いものとして批判したのが、第二の立場、チューリヒの改革者ツウィングリの立場です。ツウィングリは「これはわたしの体である」の「である」を「意味する、象徴する」と理解して、あくまでも聖餐におけるパンとぶどう酒はキリストの体と血の象徴に過ぎず、主の晩餐はキリストの贖いの記念、想起であるとしたのです。
 これに対して第三の立場を取ったのがカルヴァンでした。カルヴァンはツウィングリの象徴説を批判し、ルターのように主の晩餐におけるキリストの現臨を主張しました。しかしさりとてそれをルターのようにパンとぶどう酒という実体と結びつけることはしませんでした。そこでカルヴァンが主張したのは、地上におけるパンとぶどう酒を通して天におけるキリストの臨在にあずからせるのは聖霊なる神の働きであるということでした。私たちが信仰を持ってこれを食する時に、聖霊なる神の働きによって私たちはキリストの体と血にあずかり、キリストとひとつにされるのだと教えたのです。

(2)キリストの臨在のリアリティー
 以上のような議論を踏まえて第78問を読むと、そこではまずカトリックの化体説が明確に否定されていることが分かります。そして続く第79問において、私たちがパンとぶどう酒を食することがキリストの体と血にあずかることになることの意味が明らかにされるのです。「問:それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。答: キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のために、わたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は自に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです」。
 このように主の晩餐の勘所は聖霊のお働きであり、信仰であることがよく分かります。私たちがパンとぶどう酒を信仰をもって食する時、そこで聖霊は私たちを贖い主イエス・キリストとひとつに結び合わせ、その結びつきをいよいよ堅く確かなものとしてくださる。これは信仰なくしては決して起こり得ない出来事です。さらに聖霊が私たちを主の晩餐を通してキリストに結びつけると言う時、そこで起こっているのは「あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということ」でもありました。御子イエス・キリストの地上の全生涯を通しての苦しみ、十字架による死、葬り、陰府下り、そして復活、召天、着座に至るすべての歩み、すなわち御子の苦難から栄光へと進まれたその従順の御生涯の全体に私たちも結びつけられ、このキリストとひとつにされるのであって、私たちがあずかるのはキリストにある救いと栄光だけではなく、苦難と従順でもあることを今晩心に刻み、ますます主イエス・キリストに従う私たちとさせていただきましょう。



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