ハイデルベルク信仰問答による説教その26 2012/08/12
『キリストによって洗われる』

エゼキエル36:25-27

 今晩は、主イエス・キリストを信じた者が、救いのしるし、また主のみからだなる教会に加えられるしるしとしての洗礼の恵みについて、ハイデルベルク信仰問答のことばに導かれながら、ともに御言葉に聴いていきたいと思います。

(1)「思い起こし、確信させる」恵みの手段
 主イエス・キリストを救い主と信じ受け入れた者は、そのしるしとして洗礼を受け、神の子どもとされて主の教会に迎えられます。それは単なる儀式ではなく、まことにキリストが聖霊によって私たちをご自身に結びつけ、ご自身の御体である教会に結びつけてくださる恵みの御業そのものです。ハイデルベルク信仰問答の第26主日は、この洗礼の恵みについて教えています。第69問。「問:あなたは聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。答:次のようにです。キリストがこの外的な水の洗いを制定された時、約束なさったことは、わたしがわたしの魂の汚れ、すなわち、わたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ。そして、それは日頃体の汚れを落としているその水で、わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、ということです」。ここでまず注目したいのはいつものように問いのかたちです。「あなたは聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか」。ここにもまた「あなたの益」を問うハイデルベルクの特徴的な問いかけが繰り返されます。洗礼には、キリストの十字架の贖いが「私の益」であることを思い起こさせ、確信させるという意義があるのであり、ここでの「益」とは「救い」と言い替えても良い言葉です。主イエス・キリストの十字架が私の救いである。このことが洗礼を通して思い起こされ、確信されるのです。つまり一回的で決定的なキリストの御業はもはや繰り返されることがないし、また洗礼という儀式そのものに救いの力があるのでもない。そうではなくそれはすでになされた贖いの御業が私にもたらす救いの恵み、益を思い起こさせ、確信させるものだというのです。

(2)水による洗いの意義
 二千年も前のゴルゴダの丘の上での十字架が、この私の救いのためであると私たちが信じることが出来るのはなぜか。聖書はそれを聖霊のお働きに結びつけるのですが、その聖霊の働きの目に見える保証が洗礼の礼典です。ですから続く答えは次のように述べています。「キリストがこの外的な水の洗いを制定された時約束なさったことは、わたしがわたしの魂の汚れ、すなわち、わたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ。そして、それは日頃体の汚れを落としているその水で、わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、ということです」。
 ここに「外的な洗い」という表現が出てきますが、これは主イエス・キリストの贖いと聖霊によって罪が洗いきよめられることと水による洗礼が対応関係にあることを意味する言葉です。洗礼という儀式そのものは水に浸す、あるいは水によって洗うという行為を中心に組み立てられていますが、要するにそのような儀式によってあらわされているのは主イエス・キリストによる罪の赦しの確かさ、罪の洗い清めの完全さにあると言えるのです。
 今晩、開かれている旧約聖書のエゼキエル書には次のように記されています。36章25節から27節。「わたしがきよい水をあなたたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」。このエゼキエルの語った言葉は、新約の時代、主イエス・キリストの制定と、聖霊の御業によって洗礼の礼典として教会に担わされ、今日に至っているのです。自分自身ではどのようにしても拭い落とすことの出来ない罪の性質。それは私たちの本性に染み着いたものでありました。それは私たちの如何なる努力や善行によっても取り去ることができず、むしろその汚れは日々に増し加わり、腐敗は進んでいたのです。しかし父なる神はそのような罪の中にある私たちのために御子イエス・キリストを賜り、御子の贖いによってその罪を赦し、聖霊なる神によって水の洗いの洗礼を通して、その赦しの確かさを保証して下さるのです。そこにおいてはもはや過去の罪も、現在の罪も、未来の罪もすべて問われることがない。水によって体の汚れを落とすのと同じくらいの、いや実際にはそれ以上の確かさによって罪の赦しが与えられているのです。

(3)罪の赦しと聖化の恵み
 しかしハイデルベルクは洗礼の恵みを罪の赦しだけにとどめることをしません。第70問を見ましょう。「問:キリストの血と霊とによって洗われるとは、どういうことですか。答:それは十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって、神から罪の赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです」。
 ここには単に私たちが罪赦されるだけでなく、その後の罪赦された者としての生活、すなわち聖化の歩みについて教えられています。私たちが洗礼を受けるのは、そのような聖化の生活のスタートを切るためであるというのです。義認が一回的なことであるとすれば、聖化は継続的なことです。法的にはすでにキリストの贖いによって罪は完全に赦されているのですが、しかし状態としては今なお私たちは罪との深刻な戦いの中に日々置かれています。しかし「次第次第に罪に死に」、「いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むため」に私たちは洗礼を受けることにより、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別されるのです。キリストによって着せていただいた義の衣にふさわしく私たちの中身が変えられていく。その歩み出しが洗礼の恵みなのです。

 



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