ハイデルベルク信仰問答による説教その24 2012/07/29
『感謝の実を結ぶ』

ヨハネ15:5
 
 今晩は主イエス・キリストの十字架の贖いによって罪赦され、義とされた私たちが、聖霊の恵みによって結んでいく善き業の実りについて、信仰告白の言葉に導かれつつ学んでまいりたいと思います。

(1)救いと善き行い
 今日の第24主日では、信仰者の為す「善き業」の問題が取り上げられます。まず第62問から第64問を見ましょう。「問62:しかしなぜ、わたしたちの善い行いは、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか。答:なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです。問63:しかし、わたしたちの善い行いは、神がこの世と後の世でそれに報いてくださるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。答:その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。問64:この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか。答:いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」。
 今晩開かれている御言葉は、つい最近朝の礼拝で読んだヨハネ福音書15章の御言葉です。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」。ここで主イエスが言われた「多くの実」が、聖霊が私たちを通して結んでくださる実りである善き行いのことなのです。信仰問答はこれについてまず「なぜ、わたしたちの善い行いは、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか」と問います。宗教改革の時代に人間の善き業が問題となったのは、当時のカトリックの救いの理解、すなわち人間の行いによる義が自らの救いのために用いられるとする考えがあったからです。しかし宗教改革の教会が徹底して主張したのは、使徒パウロがローマ書やガラテヤ書において語った、救いは人の行いによらず、ただ恵みにより、信仰によって、ということでした。それで信仰問答も次のように答えています。「なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです」。また続く第63問でも次のように言われるのです。「しかし、わたしたちの善い行いは、神がこの世と後の世でそれに報いて下さるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。その報酬は功績によるのではなく、恵みによるのです」。

(2)感謝の実を結ぶ
 このような宗教改革の教会の善き行いと救いの理解は、当時からカトリック側の反論を引き起こしていました。それで第64問は、そのような反論を踏まえて言うのです。「この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」。つまり人間の救いに善い行いが不必要であるとすれば、たちまち人間は善い行いをすることをやめて放縦な生活に走るのではないかと言う主張です。実はこのような議論はなにも宗教改革時代に始まった者ではありませんでした。むしろ教会が救いの教えを語り続けてきた歴史の中で絶えず繰り返されてきた議論でした。たとえば古代の教父アウグスティヌスも、ペラギウスと言う人と救いは神の恩恵によるか否かを巡って論争をしてきたのです。
 これに対して信仰問答は次のように答えています。「いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」。主イエス・キリストによって愛され、罪赦され、義と認められた者たち、すなわちまことの信仰によってキリストに接ぎ木された人たちが、感謝の実を結ばないことなどあり得ない、とは実に大胆な言葉です。けれどもここにまことに救いに入れられた者たちの新しい生き方があるのです。主イエスというぶどうの木に接がれ、繋がれた私たちはそこで豊かな感謝の実を結んで生きていく。これこそが主イエス・キリストにある新しい人間の姿であり、また人間の生きる目的なのです。このことを使徒パウロはローマ書6章で次のように言っています。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」。
私たちの新しい人生、それはぶどうの幹である主イエス・キリストにしっかりと繋がって、主イエスの救いに感謝して生きる応答の生活であり、それによって実を結ぶ豊かな人生です。今日、私たちのうちに住んでいてくださる聖霊の豊かな助けをいただいて、今週も主イエスへの感謝の実を結ぶ日々を新しく始めてまいりたいと願います。

 



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