ハイデルベルク信仰問答による説教その23 2012/07/22
『キリストのおかげで』

IIコリント5:21

 今晩は、私たちが罪を赦され、神の御前に義と認められるために、神の御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業と、それを信じ、受け入れる信仰の恵みについてともに教えられてまいりたいと思います。

(1)立ちもし、倒れもする条項
 今日取り上げるハイデルベルク信仰問答の第23主日は、教理の言葉で「信仰義認」について教えているところです。まず第59問から第61問を読んでおきましょう。「第59問:それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けになりますか。答:わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる、ということです」。「第60問:どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか。答:ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、『お前は神の攻めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」。「第61問:なぜあなたは信仰によってのみ義とされる、と言うのですか。答:それは、わたしが自分の信仰の価値のゆえに神に喜ばれる、というのではなく、ただキリストの償いと義と聖だけが神の御前におけるわたしの義なのであり、わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも自分のものにすることもできないからです」。
 信仰義認の教えは、宗教改革の教会にとってしばしば「教会が立ちもし、倒れもする条項」と呼ばれるほどに中心的なものです。この信仰問答も、すでに第五主日、第六主日で私たちが生まれつき神の御前に不義なものであり、自分の行いで正しい者となることができないことを教え、自分でもなく他人でもなく、人間や他の被造物でもない、まことの神にしてまことの人であられるただ一人の仲保者が必要であることを教えていました。さらにこの方こそが神の御子イエス・キリストであられることを、教会が古くから信じ告白してきた使徒信条に沿って言い表してきたわけです。

(2)「これらすべてを信じる益」
 こうして使徒信条を解説したことを受けて、第59問で「それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けになりますか」と問うのです。この問いはあの信仰の益、慰めを問うというハイデルベルクの特色ある問い方と通じるものですが、これへの答えが「わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる、ということです」と言われています。
 今晩開かれている御言葉、IIコリント5章21節には次のように記されています。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。古来、教会は私たちが義と認められる消息を、法廷での被告人の姿をモチーフに語ってきました。私たちは罪ある者として神の法廷に立っており、私たちが受けるべきは自らの罪への報いとしての有罪判決と、その罰としての死と滅びのはずでした。ところが神はその裁きを私に下すことをなさらず、むしろ罪なき神の御子イエス・キリストに有罪を宣告し、その裁きを下されたのです。その結果、私たちはこのキリストにあって、すなわちキリストの贖いを受け、キリストの獲得して下さった義が聖霊なる神によって私たちにもたらされ、贖い主キリストに結びつけられることによって、神の御前にあたかも罪なき者のように無罪の判決を言い渡されたのです。そしてこの時、私たちは罪が赦されたばかりでなく神の子としての身分を与えられたので、永遠の命という祝福を相続する恵みにまであずかる者とされているのです。
 
(3)キリストのおかげで、信仰によって
 ではこの「神の御前における義」はどのようにして私たちにもたらされるか。第60問はこう述べます。「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、『おまえは神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」。ここで述べられていることを一言でまとめれば、要するに私たちが義と認められるのはすべてが御子イエス・キリストのおかげだということです。すべてはキリストが私たちに代わって、私たちのために、すべて成し遂げてくださったことなのです。
 さらに、ではこうしてキリストが獲得してくださった義を、私たちはどのように受け取るのか。第61問は言います。「わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも、自分のものにすることもできないからです」。宗教改革者たちは、信仰のことを「救いを受け取る手」であると表現しました。それはこちらが身を乗り出してつかみ取る手ではなく、差し出されたよきものを喜んで受け取る幼子の手です。行いによってでなく、恵みによって差し出された御子イエス・キリストによる贖いを感謝して受け取り、キリストのおかげで義と認められ、神の子どもとされて、感謝をもって生きていく。そのような歩みをここからまた新しく踏み出してまいりましょう。

 



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