ハイデルベルク信仰問答による説教その21 2012/07/01
『赦しの共同体』

ローマ8:1-2

 今晩は、罪赦された罪人の集まりとしての教会の姿を、信仰問答の言葉に導かれつつ御言葉からご一緒に教えられてまいりたいと思います。

(1)教会を信じる
 今晩の第21主日、第54問から56問は使徒信条の「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦しを信ず」との告白を説き明かしているところです。まず問答の言葉を読みましょう。第54問から第56問。「問:『聖なる公同の教会』について、あなたは何を信じていますか。答:神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです」。「問:『聖徒の交わり』について、あなたは何を理解していますか。答:第一に、信徒は誰であれ、群れの一部として、主キリストとこの方のあらゆる富と賜物にあずかっている、ということ。第二に、各自は自分の賜物を、他の部分の益と救いとのために、自発的に喜んで用いる責任があることをわきまえなければならない、ということです」。「問:『罪のゆるし』について、あなたは何を信じていますか。答:神が、キリストの償いのゆえに、わたしのすべての罪と、さらにわたしが生涯戦わなければならない罪深い性質をも、もはや覚えようとはなさらず、それどころか、恵みにより、キリストの義をわたしに与えて、わたしがもはや決して裁きにあうことのないようにしてくださる、ということです」。
 使徒信条は教会を「聖なる」と「公同の」という二つの言葉で表現しています。教会の「聖さ」とは、教会を形作っている私たち人間の聖さではなく、「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた」という事実に基づいています。神がご自身の御心のままに、御子イエス・キリストによって選んでくださったがゆえに、教会は「聖なる」ものとされているのです。また「公同の」とは、こうして神に御子によって選ばれた「一つの群れ」が、「御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる」姿を言い表しています。教会は信仰の一致において一つとされている。ここに私たちが信ずべき教会の姿があるのです。震災後、現実の問題として「教会が一つである」ということの意味を問われています。プロテスタント教会はその歴史において様々な教派、教団に分かたれて今に至っています。もちろん教会の一致は「信仰の一致」によるものですから、それを抜きにして単に一つになることは難しいことですが、それでも教会が本来一つのものであり、一つになるべきであることを真剣に考えなければならないと思わされています。震災後、各地で教団教派を超えた様々な協力がなされました。それ以前では考えられなかったほどに、多くの教会が力を合わせ、一致協力して主の愛の業をなんとか果たそうと懸命に働きました。しかし時が経つにつれて再び教団教派の垣根が出来てきて、またもとの所に戻っていってしまうような現象が起こり始めています。今こそ「教会を信じる」ことのダイナミズムが問われているのです。

(2)赦しの共同体
 では教会の一致の鍵はどこにあるのか。使徒信条が「聖徒の交わり」と「罪の赦し」を告白する道筋を辿って考えたいと思います。教会を「聖徒の交わり」と呼ぶのも、先の教会の聖さと同様に、私たちに本来「聖さ」があることを意味してはいません。ただイエス・キリストの贖いによって罪赦された者たちが御子イエス・キリストによって結び合わされたゆえに「聖徒の交わり」が形作られているのです。ですから「聖徒の交わり」とは言い換えれば、「罪赦された罪人の集まり」なのであり、今日の説教題の如く、教会は「赦しの共同体」とも言えるものなのです。
 今晩与えられている御言葉は、ローマ書8章1節、2節です。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです」。使徒信条が教会論を聖霊論の中で告白し、さらに教会の告白に続いて罪の赦しを告白するのは、この御言葉の消息に適っていると言えるでしょう。教会は今まさにキリスト・イエスにあって罪に定められることのない、罪赦された者たちの集いです。そのような交わりを成り立たせているのはまさに「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理」によるものです。教会は清く正しい人間の集まり、聖人君子の集まりではありません。人間同士が互いに心を合わせて、一つの志によって作り上げた共同体ではありません。私たちはしばしば人間の作り出す交わりにそのような淡い幻想を抱きますが、その点で私たちはどこまでもリアリストであるべきでしょう。罪ある人間が多く集まれば、それだけ交わりは建て上げられる方向よりも、打ち崩される方向へと進まざるを得ないのです。しかしそれでもなお私たちが教会を「所詮、罪人の集まりだ」といって冷ややかに見たり、簡単に否定したり、見限ることなく、なおその集まりを信じ、その交わりを建てるために祈り、労するのかと言えば、この罪人たちの集まりこそが、罪の赦しを与えて、私たちたちを新しい原理に生かしてくださる聖霊の神の御業のもっとも鮮やかな現れの場であることを信じているからです。
 罪人の集まりが、互いの罪をあげつらい、互いを過ちを裁き合い始めれば、その集まりはたちまち修羅場と化し、あっという間にその交わりはバラバラに崩れ去っていくでしょう。しかし教会は罪赦された者たちの共同体として、いのちの御霊の原理に導かれる交わりです。そこには罪がまったくなくなるわけではない。罪が曖昧にされたまま、見過ごしにされるわけでもない。しかしいつまでも過去の罪によって互いを裁き続けたり、レッテルを貼り続ける交わりではなく、互いを疑心暗鬼で伺い合うような交わりでもありません。私たちの罪をすべてその身に負って十字架に死に、三日目によみがえり、天にあって私たちのために今もとりなしつづけ、聖霊を送って私たちをご自身に結びつけ続けていてくださる御子イエス・キリストにあって、教会はまさに赦しの共同体として立つことが出来るのです。教会は裁き合う交わりではなく、赦し合うための交わりであり、その交わりが成り立つ道は、この世が考えられないような、不思議な愛の法則によってのみ導かれるものでしょう。そのような赦しの共同体を聖霊に導かれて建てていきたいと願います。

 



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