ハイデルベルク信仰問答による説教その16 2012/05/13
『本当の死』

ガラテヤ2:20-21

 今晩は御子イエス・キリストの十字架の死と葬りの告白についてのハイデルベルク信仰問答の説き明かしを通して、私たちの身代わりとなって本当の死を死んでくださった贖い主イエス・キリストの恵みを受け取ってまいりたいと思います。

(1)キリストの死と葬り
 今日取り上げます第16主日は、使徒信条の「死にて葬られ、陰府に下り」の部分の解説です。まず第40問から第42問でキリストの死と葬りの意義が問われ、第43問ではそこから私たちが受ける益が問われ、第44問ではキリストの陰府下りの意義が問われます。まず第40問を読みましょう。「問:なぜキリストは『死』を苦しまなければならなかったのですか。答:なぜなら、神の義と真実のゆえに、神の御子の死による以外には、わたしたちの罪を償うことができなかったからです」。ここでの「死を苦しまれた」というのは独特な表現です。死を苦しまれたとは、言い換えれば神の裁きとしての死、呪いとしての死を苦しまれたということです。それは本来ならば私たちが経験しなければならないはずでありながら、しかし実際には私たちではなく主イエス・キリストだけが経験してくださった死の苦しみ、本当の死の苦しみだったのです。それで続く第41問ではこう言われるのです。「問:なぜこの方は『葬られ』たのですか。答:それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです」。まさしく神の御子イエス・キリストの私たちの身代わりとしての死は、「本当の死」にほかならなかったのです。
 ところがこの御子の償いの死によって、その死に与る私たちの死に大きな変革がもたらされたことが第42問で次のように教えられます。「問:キリストが私たちのために死んでくださったのなら、どうしてわたしたちも死ななければならないのですか」。キリストが裁きとしての死を引き受けてくださったのなら、もはや私たちの死は取り除かれてよいのではないか。それなのに依然として私たちが死ぬのは何故なのか。信仰問答はここでキリストの死によって私たちの死の意味がもはや決定的に変えられていることを教えます。「答:わたしたちの死は、自分の罪に対する償いなのでなく、むしろ罪との死別であり、永遠の命への入り口なのです」。使徒パウロはIコリント15章で、キリストの十字架の贖いの死によって、すでに我々の死は勝利に飲まれていると語りました。まさにキリストの死に与る私たちの死は罪との死別であり、永遠の命への入り口へと変えられている。これこそが福音の最も大きな慰めであると言えるのではないでしょうか。
 今晩与えられているガラテヤ2章20節、21節にこうあります。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」。キリストが本当の死を死んでくださったがゆえに、いまや私はキリストとともに十字架につけられ、キリストにあって死に、そしてキリストにあって生きる者とされた。これが福音による新しい命の姿です。

(2)キリストに結ばれたいのち
 さらにこのことは続く第43問で明確に語られます。「問:十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受けますか。答:この方の御力によって、わたしたちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです。それによって、肉の邪悪な欲望がもはやわたしたちを支配することなく、かえってわたしたちは自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになるのです」。このように第43問では「十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受けますか」と問われます。もうおなじみになっている「私たちの益」を問う問い方です。すでに繰り返し見てきたように、ハイデルベルクは主要な教理について解説する箇所、とりわけキリストの贖いの御業を解説する箇所においてはくどいほどにこの「益」という表現を用いています。つまりこの教理問答は救いについての教えが、私たちと切り離されて単に教理そのものとして取り扱われることを望んではおらず、絶えずそれが「私にとっての益」、すなわち恵みの果実となることを求めているのです。その意味ではまさしくキリストの贖いの御業こそ、私たちをキリストに結びつける恵みの行為ですから、その箇所において集中的に「私にとっての益」が語られることになるのです。
 ではこのキリストの本当の死から私たちが受け取る益とはいったい何でしょうか。それを信仰問答は今晩のガラテヤ2章の御言葉に拠って、「この方の御力によって、私たちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです」と語るのでした。キリストの犠牲の死によって、私もまたそこにおいてキリストと共に死んだのだというのです。それは私たちを罰し、滅びに至らせる罪と律法に対する死であって、私たちへの有罪判決を無効にするための死でもありました。このキリストの身代わりの死によって、私たちにとっての死の意味は根本的に変えられ、それは永遠にキリストに結びつけられながら生きる永遠への入口となったのです。
 かつて宗教改革者カルヴァンはジュネーヴ教会信仰問答で「今や信仰者にとっては、死はもっと良い生に移る通路にほかならない」と語りました。また第二次大戦下のナチス・ドイツに抵抗した偉大な牧師にして神学者であったディートリヒ・ボンヘッファーは、ナチへの反逆罪に問われてドイツ降伏の数日前に処刑されるにあたり、囚人仲間の一人に次のように語ったと言われます。「私にとってはこれが最後ですが、また始まりでもあります」と。このように信仰者が死に対する明確な勝利の態度を取ることができるのは、ひとえに神の御子イエス・キリストが本当の死をその身に引き受けてくださったからにほかならない。この恵みの事実を絶えず覚えて、主への感謝と献身の歩みへと進ませていただきたいと願います。

 



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