ハイデルベルク信仰問答による説教その13 2012/04/22
『私たちは主のもの』

コロサイ1:13-14

 今晩は、神の独り子イエス・キリストを「我らの主」とお呼びすることのできる私たちの確かな存在の根拠について、信仰問答の御言葉に導かれつつ学んでまいりましょう。

(1)私たちも神の子
 毎週の説教に説教題を付ける際に時々起こることなのですが、「私たちは主のもの」という今日の説教題、実はこの説教の第一回目の時と全く同じものでした。説教準備中の木曜日に気づいたのですが、すでに看板の奉仕者の方も準備くださっていると思ってそのままにしています。しかし今日の第13主日の二つの問答を読んでお分かりいただけるように、今日の説教題が第1主日と同じになったことも、あながち理由のないことではないのです。
 第33問と第34問を続けて読んでみましょう。「問:わたしたちも神の子であるのに、なぜこの方は神の『独り子』と呼ばれるのですか。答:なぜなら、キリストだけが永遠からの本来の神の御子だからです。私たちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです。問:あなたはなぜこの方を『我らの主』と呼ぶのですか。答:この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放してまた買い取ってくださり、わたしたちの体も魂もすべてを御自分のものとしてくださったからです」。ハイデルベルク信仰問答はすでに第9主日で、私たちが御子イエス・キリストによって創造主なる神を「父よ」とお呼びすることのできる神の子の身分と立場を与えられていることを教えていますが、ここではその論理をひっくり返して、「私たちも神の子であるのに」としてイエス・キリストが神の御独り子であることの意味を問うていきます。つまりこの問答は神の子とされた者たちが、私たちを愛し、救ってくださった御父のもとにあって、自分が通されてきた救いの道筋を問い直しているものだと言えるのです。

(2)キリストのおかげ
 この道筋を端的に言い表しているのが、今晩開かれているコロサイ書1章13節、14節の御言葉です。「神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子の御支配の中に移して下さいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています」。父なる神が御子によって私たちを罪の支配する奴隷の状態から、御子の支配する神の子の状態へと移してくださった。それで今私たちは完全な贖い、罪の赦しの中に事実生かされているのですが、信仰問答はこのことを二つの言葉で表現します。すなわち「この方のおかげで、恵みによって」という言葉です。ここで「この方のおかげ」とは「この方を通して」あるいは「この方のゆえに」ということですが、しかしこの訳が「おかげ」としたことは大変意味深いと思っています。
 宗教改革が確認したいわゆる義認の教理は、御子イエス・キリストが十字架の贖いによって獲得してくさった義が聖霊によって私たちに転嫁され、それをもって神の法廷において私たちが「義と認められた」と説明します。これはいわば法的な概念を用いての説明といえるでしょう。この背景には当時のカトリック教会への反論があるのですが、カトリックの場合はキリストの獲得してくださった義が私たち人間に注入されて、私たちが実体的に「義となる」と説明します。これは実体的な変化としての説明です。
 私たちはあくまでも私たちの内なる義によってではなく、キリストの義がもたらされて義とされることを信じているのですから先の説明で正しいのですが、しかしこの場合ともするとキリストと私たちとの関係は法的にのみ理解されて、そこにあるキリストと私たちとの人格的な関係は見過ごされてしまいがちです。大切なのはキリストの人格と御業を決して切り離してはならないということであり、その点で、キリストの獲得してくださった義の功績は、まさしくキリストが私たちを愛するがゆえに贖いを成し遂げて下さったおかげ、すなわちキリストの「恩義」であると受け止めることが必要なのです。東京神学大学の芳賀力先生がこれについて重要なことを述べておられます。「キリストへの愛の負い目ということ、これではキリストに申し訳ない、その愛にこたえたいという切なる思いが、絶望している罪人を立ち上がらせるのである。まさしくキリストの恩義という人格関係こそが最も重要なのである。贈り物には、それを贈ってくれた方の気持ちと人格が込められている。そのことを知ることが贈られた者の生き方をも変える。贈り物と贈り手とは切り離し得ない、義認の効力とはまさにそのような人格的な愛の力なのである」。

(3)私たちは主のもの
 何の功をもない私たちを、ただ父なる神が愛と自由と主権的な選びによって救いの中に招き、愛する独り子、御子イエス・キリストの贖いによって私たちに救いを与えてくださいました。この確かな救いに与ることこそが私たちのただ一つの慰めです。それを信仰問答の第1問は次のように言い表しました。「問:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答:わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」。そして今日の第34問で、もう一度この点を私たちに再確認させるのです。「この方が、金や銀ではなく御自身の尊い血によって、わたしたちを罪と悪魔のすべての力から解放してまた買い取ってくださり、わたしたちの体も魂もすべてを御自分のものとしてくださったからです」。
 私たちは主のものとされている。主の手にある者を揺り動かす者も、奪い去る者も一つもない。私の信仰の深さ、強さ、長さ、確かさが私の信仰の生涯を支えるのではなく、父なる神が御子によって示してくださった愛こそがその確かさの根拠です。私たちは不真実な者であっても、神はつねに真実であられ、私たちを一度握り締めたら決して手放すことをなさらないお方でいてくださる。ここに確かな存在の根拠を据えて、主を見上げて生きていく。そのような今日からの日々でありたいと願います。

 



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