ハイデルベルク信仰問答による説教その10  2012/03/04
『御手の中で』

ローマ8:38〜39

 今晩は、私たちが神を「父よ」とお呼びすることのできる信仰の幸いについて、ハイデルベルク信仰問答に導かれつつ、御言葉を通して教えられてまいりたいと思います。

(1)神の今働く力
 来週で震災から一年を迎えます。すでに始まっていますが、今週は震災を覚えて様々な映像や言葉がテレビや新聞から発せられることでしょう。しかしそうやって一年を過ごしてみてあらためて心に浮かぶのは、一年前の震災直後に浮かんだのと全く同じ一つの問い、「主よ、どうしてですか」という問いです。そのような問いの中にあって今晩、ハイデルベルク信仰問答の第10主日から学ぶことの意味を思います。まず第27問を読みましょう。「問:神の摂理について、あなたは何を理解していますか。答:全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も革も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです」。ある人はこのような言葉を読むと、十六世紀という時代の限界や制約というものを感じるかもしれません。今のように科学技術が進んでいなかった時代には、自然の力の作用の前には人間は全く無力であり、受け身なのであって、その時代の人々はすべてを神のなさることとして受け入れるほかなかったのだと。しかし今は科学が進み、人間の技術は発達したので、人間は神を持ち出さなくても自分たちで自然に働きかけ、これをコントロールすることができると。
 しかしこのような考え方がもはや意味をなさないことを私たちは経験しています。人間の自然の圧倒的な力を前にしての小ささ、人間の科学や技術の行き着く先にあったものの愚かさ、そういうものを前にして私たちは今、別の意味での諦めの前に立っているのではないか。しかし摂理の信仰とは、決して人間にとっての諦めの態度ではありません。むしろ神の摂理を信じる信仰とは、今私たちが直面しているこの深刻な終末論的事態に対して唯一の答えを与えるものであり、そこでこそ信仰が求められるものでもあるのです。第27問のキーワードは二つです。一つめは神の摂理を「全能かつ現実の神の力」ということ、二つめは神の摂理が「偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされる」ということです。「現実の神の力」とは別訳では「神の今働く力」とも言われます。私たちの神の御手は、すべてプログラム済みの法則なのではなく、今ここで働く生きた御業なのであり、その理由は神が、私たちを愛してやまない父なるお方であり、その御手は私たちをいたずらに苦しめたり、悲しませたりする一方的な暴君の手ではなく、私たちを慈しんでやまない父なる神の御手なのです。

(2)御手の中で
 この父なる神の愛の御手の確かさを私たちに教えるのが、今晩開かれているローマ書8章の御言葉です。38節、39節。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。
 このように神を父なるお方として信じ、この父の御手の中に私たちが握られて、その御手からはだれも私たちを引き離すことができない。私と父とを結び合わせるのがイエス・キリスト御自身である、この信仰に立つ以外に、私たちはこの地上に起こる苦しみを受け取る手段はどこにもないのだと思います。それでもなお「主よ、どうして」という問いは残るかもしれない。けれどもその問いもまた、私たちを愛してやまない父なる神だからこそ真っ正面から問いかけることの許される問いなのではないでしょうか。
 こうして信仰問答は第28問で、この父なる神を信じ、そして父なる神の摂理を信じることの益を問います。「問:神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。答:わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛からわたしたちを引き離すことはでさないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは動くことも動かされることもできないからです」。このハイデルベルク信仰問答と同じ響きを持つ信仰告白に1561年に作られたベルギー信条があります。その第13条に次のようにあります。「我らはこの善き神がすべてのものを創造された後、気まぐれに彼らを棄てることはなく、聖なる御旨によって彼らを導き、支 配することを信じる。・・・また神が人の思いを越えたことをされることについて、我らはそれを我らの能力が許す以上に好奇心をもって探求することを欲しな い。我らはこれらの限度を超えないで、神が御言葉によって現すことだけを知って満足する。・・・この教えは我らにいい知れない慰めをもたらす。なぜなら我 らはそれによっていかなるものも気まぐれに起こるはずはなく、我らの善き天の父の命令によって我らに起こると教えられるからである。神は父としての配慮を もって我らに心を留め、彼に属する全ての被造物を支配し、そのため我らの頭の髪一本も、小鳥でさえも、我らの父の意志がなければ地に落ちることはできない のである。我らは神のうちに休らう。神が悪魔とすべての我らの敵を制していることを我らは知っているので、神の許しと意志がなければわれらを害することは 出来ないことを知っているからである」。
 神の摂理を信じる信仰。それは私たちが知り得ない神の御心のすべてを知ることができることを意味してはいません。神のご計画、そのプログラムをあらかじめ知るということでもないのです。むしろ私たちの摂理の信仰とは、神が私たちの父であられること、この父は私たちに愛する御子イエス・キリストを賜るほどに私たちを愛していてくださるお方であられること、だからこの父なる神が私たちに与えられるものを、私たちは時に忍耐し、時に感謝し、時に待ち望み、そうやって神の愛を確信し続ける信仰なのです。すべてのことが分からなくても、それでも父なる神を信じる。すべては御手の中にあって美しく、最善に導かれていく。この御手から誰も私たちを奪い去ることはない。この一つのことを生きるにも死ぬにも私の慰めとして信じて生きていく。それが私たちに与えられている信仰の世界なのです。



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