ハイデルベルク信仰問答による説教その9 2012/02/19
『わたしの神、わたしの父』

ローマ8:14〜16

 今晩は、私たちが神を「父よ」とお呼びすることのできる信仰の幸いについて、ハイデルベルク信仰問答に導かれつつ、御言葉を通して教えられてまいりたいと思います。

(1)父なる神を信じる
 今日の第9主日、第26問から、ハイデルベルク信仰問答は使徒信条を説き明かしながら、私たちの信じる福音の中身を明らかにしていきます。まずその問答を見ておきましょう。「問:『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず』と唱える時、あなたは何を信じているのですか。答:  天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって    今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父が、御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる、ということです。わたしはこの方により頼んでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えてくださること、また、たとえこの涙の谷間へいかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益としてくださることを、信じて疑わないのです。なぜなら、この方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです」
 この第26問と続く第10主日の第27問、第28問は、ハイデルベルク信仰問答全体の中でもひときわ心に響く慰めに満ちた言葉が記されるところです。特に今、この時を生きる私たちがよく味わっておきたい大切な信仰の言葉なのではないでしょうか。ここに言い表されていることを一言で言えば天地万物の創造者なる全能の神と、造られた私たち人間の「遠さ」と「近さ」と言えるでしょう。「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も 保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父」なる神、それは私たちを超えた絶対的な存在であり、私たちとの間にあらゆる点で大きな隔たりを持つ超越的なお方です。ところがその神が、「御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる」と言われて、私たちに「近い」お方であると告白されているのです。

(2)御子イエス・キリストに結ばれて
 全知全能の創造者なるお方を、被造物に過ぎない私たちが「父」と呼び得るのはなぜでしょうか。本来「父なる神」という呼び名は御子イエス・キリストだけが呼びうる名です。ところが、私たちが主イエス・キリストの贖いによって救われた時、私たちもまたこの御子にあってイエス・キリストの父なる神を「わたしの神、わたしの父」と呼ぶことのできる関係が新しく与えられたのです。このことを使徒パウロは今晩開かれているローマ書8章で次のように語りました。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を 受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」。
 こうして御子イエス・キリストの救いに与る時に私たちのうちに聖霊が与えられ、この聖霊のお働きによって私たちは主イエス・キリストと一つに結び合わされ、それによって神の子としての身分を与えられ、主イエス・キリストの父なる神を「わたしの父」と呼ぶことができるようにされたのであって、「御子キリストのゆえに」という一句がどれほど思い意味を持つかを十分に思い巡らすことが大切です。私たちが「父なる神よ」と祈る時、そこには主イエス・キリストによって贖われ、聖霊によってキリストのものとされ、それによって神の子とされたという三位一体の神の御業がすべて込められているのであり、ここに「キリストの ものとされること」こそが生と死を貫く一番の慰めだと説く、この信仰問答の心もあるのです。

(3)創造と摂理
このように父なる神をまことに「わたしの神またわたしの父」と信じる時、創造と摂理の信
仰もまた大変生き生きとした告白として言い表されるようになります。続きを読みましょう。「わたしはこの方によりたのんでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えて下さること、また、たとえこの涙の谷間へ(ラテン語テクストでは「悩み多い生涯」)いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益として下さることを、信じて疑わないのです。なぜならこの方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです」。
 父なる神の御業は主として創造と摂理の御業として教えられていますが、ここではとりわけ摂理の信仰について多くの言葉が費やされています。摂理の信仰はともすると「運命論」や「宿命論」のように受けとめられ、神の一方的で時に暴力的な力のように感じられるものですし、確かに私たちの人生に突然に降りかかる出来事は、特に昨年来私たちが経験させられている出来事をどう受けとめたらよいのか、それはまことに大きな問いでしょう。しかし私たちは摂理の信仰を運命論や宿命論のようには受け取りません。なぜなら私たちの信じる神は、運命を支配する法則や機械仕掛けの神でなく、「主イエス・キリストの父」であり、「わたしの神またわたしの父」でおられる方なのです。「なぜならこの方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです」。つまり「全能の神」とはただそれだけを取り出していては私たちと遠く離れたお方としてしか受け取れ得ないのですが、これがひとたび御子イエス・キリストのゆえに私たちの父となってくださったならば、この父なる神の全能の御業は私たちに対しての「愛」の御業となり、必ずや私たちに対して「益」となる御業となるに違いないと信じることができるでしょう。「わたしはこの方により頼んでいる」ので、私たちは神を父なるお方として信じ、この父なる神を信じるがゆえに、父なる神の創造と摂理の御業を信じることができるのです。

 



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