ハイデルベルク信仰問答による説教4 2011/12/18
『あわれみの神、義なる神』

出エジプト34:6-7

 今晩は私たちに罪を示し、真の悔い改めとキリストにある赦しへと私たちを促される神のあわれみと義のお姿を、ともに教えられてまいりたいと思います。

(1)神は不正なお方か
 ハイデルベルク信仰問答は第3問で、人間が自分自身の悲惨さを知るのは律法によると教えました。神の基準が示されることで、そこから外れてしまっている人間の姿が露わにされるのです。創世記3章には最初の人間アダムとエバの罪への堕落の様子が記されますが、そこに現れる罪を犯した人間の一つの姿は「責任転嫁」ということでした。3章11節、12節にこうあります。「すると仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。』人は言った。『あなたがわたしのそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』」。ここでアダムは神から禁じられた善悪の知識の木の実を食べたことを咎められて、その責任をエバのせいにしますが、そこでは「あなたがわたしのそばに置かれたこの女」といって、暗に神御自身にまでその責任を転嫁しようとしているかのようです。いかに私たちが自分の罪と悲惨と向き合うことなく、いつも誰かのせいにしてその場を切り抜けようとするか、そんな姿と直面させられます。
 今日の第四主日、第9問もそのように読むことが相応しいでしょう。「問:御自身の律法において人ができないようなことを求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか。答:そうではあリません。なぜなら、神は人がそれを行えるように人を創造されたからです。にもかかわらず、人が悪魔にそそのかされ、身勝手な不従順によって自分自身とそのすべての子孫からこの賜物を奪い去ったのです」。人が罪と悲惨の中にあるのは、その罪を罪と定める律法を与えた神のせいでなく、まして神が不正なお方であるからなどと言うことはできない。どこまでも私たち人間自身にある。もはや言い逃れはできないところに私たちは置かれるのです。

(2)神の怒りと裁き
 さらに罪を犯した私たちにあらわれるもう一つの姿は、自分の罪を過小評価しようとする姿です。責任転嫁と過小評価。いずれも深刻な悲惨の姿です。自分の罪をできるだけ小さなものとし、大したことはない、誰でもしていることだ、罰を受けるほどのことではないと、自分で罪を犯しておきながら、その裁きを回避しようとするのです。しかし続く第10問ではこう教えられます。「問:神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。答:断じてそうではありません。それどころか、神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをただしい裁きによってこの世においても永遠にわたっても罰したもうのです。それは、『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守(り行わ)ない者は皆、呪われている』と神がお語りになったとおりです」。この教えを支えているのは申命記27章26節、ガラテヤ書3章10節です。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、呪われる」。神は罪に対して徹底した態度を取られる。この点において私たちは主なる神を侮ることは許されないのです。

(3)あわれみの神、義なる神
 そこで大切なのが第11問です。「問:しかし、神は憐れみ深い方でもありませんか。答:確かに神は憐れみ深い方ですが、またただしい方でもあられます。ですから、神の義は、神の至高の尊厳に対して犯される罪が、同じく最高の、すなわち永遠の刑罰をもって体と魂とにおいて罰せられることを要求するのです」。私たちはしばしば旧約の神は怒りと裁きの神、新約の神は救いと赦しの神というイメージを持つことがありますが、旧約聖書において示される主なる神のお姿はなんといっても「あわれみの神」のお姿です。イスラエルをあわれみ、幾度も罪を犯す民を忍耐を持って見捨てることなく、御自身が結んでくださった契約にどこまでも誠実を尽くしてくださるお方、それが主なる神のお姿です。
 しかしだからこそ私たちが忘れてならないのはあわれみの神は同時に義なる神であられるという事実です。神のあわれみを知ることは、その神におもねり、あわれみを先に値踏みして、赦しを担保にするためのものではないはずです。どうせ許されるのだから罪を犯そうということは絶対にあり得ないと、パウロがローマ書で強調する通りです。出エジプト記34章の御言葉に聞きましょう。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎と罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、この子に、三代に、四代に」。神の義、それは時に私たちには厳しいものに見えますが、この義が全うされなければ御子イエス・キリストの贖いもなく、私たちの救いもないのです。御子イエスが十字架の上で私たちの身代わりとなってくださったのは、私たちが満たすことの出来ない律法の要求を代わりに満たし、神の義を満足させてくださったからに他なりません。
 最後に目を留めておきたいのは信仰問答の次の言葉です。「神の義は、神の至高の尊厳に対して犯される罪が、同じく最高の、すなわち永遠の刑罰をもって体と魂とにおいて罰せられることを要求するのです」。神の義の要求は、それに適わない罪人を「体と魂」において罰することを求める。しかしその罰を受けてくださったのは罪を犯した張本人の私ではなく、神の御子イエス・キリストでした。御子が私たちの罪の罰を「からだと魂」において身代わりに受けてくださった。それで私たちの生きるにも死ぬにもただ一つの慰めが「からだも魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであること」なのです。神の義を満足させるためには罪人のからだと魂が罰せられる必要があった。それを主イエスがからだと魂で満たしてくださったので、今や私たちはからだと魂とにおいて、ただ一つの慰めを得ることが出来、しかも永遠に繋がるまったき慰めの中に生きることができる。これが神のあわれみなのです。

 



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