ハイデルベルク信仰問答による説教2 2011/11/20
『神のおきて』

ローマ3:19-20

 今晩は私たち人間の現実の姿を照らし出し、そこから本来あるべき姿へと向かわせる神のおきてについて、ハイデルベルク信仰問答によってともに教えられてまいりたいと思います。

(1)自分の悲惨さへの気づき
 今日は第二主日の第3問から第5問をともに読みました。ハイデルベルク信仰問答は第2問で、私たちが生きるにも死ぬにも確かなただ一つの慰めを得るためには、まず自分自身の罪と悲惨さとを知らなければならないといいました。この問答を受けて続くのが第3問です。「問:何によって、あなたは自分の悲惨さに気づきますか。答:神の律法によってです」。私たちは自分のことは自分が一番良く知っていると思っていますが本当にそうでしょうか。私たちは一番知らなければならない自分自身の姿を直視することができず、むしろ罪と悲惨の中にある自分と向き合うことを避けて、現実逃避を繰り返しているのです。しかしそんな私たちを現実の姿の前に引き出すのが律法の役割だと信仰問答は教えます。この教えの元にある御言葉に聞いておきましょう。ローマ人への手紙3章19節、20節です。「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」。
 ここでパウロは旧約においてなぜ神は人間に律法をお与えになったのか、その目的を明らかにしています。それは私たちが律法という神の基準を与えられることによって、そこから逸れてしまっている自分の罪を知らされ、神が求めておられる律法の要求を満たすことができない自分自身の悲惨な現実を認めさせられるためなのです。自分の罪を認めるのは、私たちにとって決して易しいことではありません。けれども律法が示す自分の罪と悲惨さの気づきこそが、救いへの道の第一歩なのです。

(2)神が求めておられること
 ではそもそも主なる神が律法を通して私たちに求めておられるのは、一体どのようなことでしょうか。続く第4問に次のように記されます。「問:神の律法は、わたしたちに何を求めていますか。答:それについてキリストは、マタイによる福音書二十二章で次のように要約して教えておられます。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている』」。これはマタイ福音書をはじめマルコ、ルカの福音書にも登場する有名な問答です。ここで主イエスは「律法の中で、たいせつな戒めはどれですか」という問いかけに対して「主なる神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」を挙げられました。これは二つ別々のことではなく、切り離すことのできない一つの戒めです。それにしても信仰問答が旧約の律法をこの主イエスのお言葉でまとめているのは大切なことです。通常旧約の律法と言えばまず思い浮かぶのはあの出エジプト20章にある十戒であり、また大きく取れば創世記から申命記に至る律法の書全体、とりわけレビ記などに詳細に命じられる祭儀律法と道徳律法ということになるでしょう。しかしこの信仰問答では十戒が取り上げられるのは人間の罪と悲惨を教えるこの場所ではなく、むしろ第2問が挙げた三つ目のこと、すなわちどのようにして神の救いに感謝するかという感謝の生活の場所なのです。
 つまり信仰問答は私たちに罪と悲惨さを教えるという律法の役割については、律法の事細かな規定を示すことをせずに、神を愛し、人を愛するという根本原則をはっきりと示し、やがて主イエス・キリストの贖いによって救われた人間が神に感謝し献身して生きる指針を示す時には、そこで新しい神に服従する基準としての律法の役割を十戒の説き明かしによって示していこうとするのです。ここにハイデルベルク信仰問答の律法理解の特色があるのです。

(3)私たちの心の姿
 その上であらためて信仰問答は第5問で私たちの罪と悲惨の現実を突きつけます。「問:あなたはこれらすべてのことを完全に行うことができますか。答:できません。なぜなら、わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」。主なる神が求めておられる人間のあるべき姿、それは神を愛し、隣人を自分自身のように愛して生きる姿でした。しかし今や私たちはそのようなあるべき姿から遠く離れてしまっている。神を愛し、隣人を愛するどころか、神と自分の隣人を憎み、敵対し、自分のことばかりを考える自己中心の罪の中に陥ってしまっている。そればかりかそのような罪の中に陥っていることにさえ気づかず、ますます罪の深みにはまり、滅びに向かって突き進んでいるのです。そのことに気がつくことのできない人間の罪の姿はまさに悲惨そのものです。そのような私たちの有り様を信仰問答は巧みにも「生まれつき心が傾いている」と言いました。生まれつきの私たちの心は絶えず悪へと傾いてしまっているのです。まさに今日のローマ書の直前で「義人はいない、ひとりもいない」と言われるとおりです。
 けれども、このようなまったく逃れようのない罪の現実の前に私たちを打ちのめすことが主なる神の御心なのでしょうか。そうではありません。これは私たちが生死を貫くただ一つの慰めを得るためのはじめの一歩です。この罪と悲惨の現実から、私たちの救いへの道は開かれていく。その意味で神のおきてはいつでも私たちのスタートラインです。ローマ書3章19節、20節に続く21節から24節にこうある通りです。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」。このキリストの救いのもとへと私たちと連れて行くところにこそ、神のおきての大切な役割があるのです。

 



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