ハイデルベルク信仰問答による説教1  2011/11/13
『私たちは主のもの』

ローマ14:7-8

 今晩から新たにハイデルベルク信仰問答による教理説教をはじめます。この信仰問答を手引きとして聖書が語る福音についてともに学びながら、それによって信仰の筋道が明らかにされ、私たちの信仰の足腰が鍛えられ、福音の真理にしっかりと立つ信仰の姿勢を養ってまいりたいと思います。

(1)ただ一つの慰め
 ハイデルベルク信仰問答は、16世紀のドイツ、プファルツ選帝侯国の主都、ネッカー河畔の町ハイデルベルクで作られたもので、世界中の教会で親しまれ、信仰の導きのための手引きとして長い歴史の中で用いられ続けています。当時のプファルツの教会はその規則の中に信仰問答の用い方について定め、毎主日の朝の礼拝では九週間で全体を朗読するように指示し、午後の礼拝では52回の主日で全体を説教するように定めました。こうして一年間を通して信仰問答を口ずさみ続けたのです。今日でも例えばオランダの改革派教会では午後の礼拝でハイデルベルク信仰問答による説教が続けられていると言います。私たちの教会でもかつて水曜日の祈祷会で二度にわたってこの信仰問答を学んだことがあります。その際には全129問を1問ずつ順番に取り上げて解説をしましたが、今回はプファルツ教会規定が定めた第一主日から第五十二主日までの区分に従ってご一緒に福音の教えに聞いていきたいと思っています。
 今日は第一主日の第1問と第2問をともに読みました。まずこれらの問答を通して言い表されている福音の教えの中心となる御言葉に聞いておきましょう。ローマ人への手紙14章7節、8節です。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」。ここでパウロが「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と語る生き方がどこからもたらされるのか。その消息を明らかにするのが有名なハイデルベルク信仰問答の第1問です。「問:生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。答:わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」。この第1問だけでも何回かに分けてじっくりと味わいたい宝のような言葉が詰まっていますが、今晩覚えたいのは信仰問答が語る「ただ一つの慰め」の中身です。ここで言われる「ただ一つの慰め」とは何か。それは人の生き死に際して握り締めていけるものと言ってもよいでしょう。死の床にある方に福音を一言で教えてくれと言われたら何と答えるか。それが「私たちは主のものだ」という言葉なのだと確信するのです。しかも私たちが主のものとされるために、「この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださった」。これが福音の中心なのです。

(2)私たちが知るべき三つのこと
 信仰問答はこのただ一つの慰めを得る道筋を第2問で次のように言っています。「問:この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたはどれだけのことを知る必要がありますか。答:三つのことです。第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」。この三つのことがこれから一年かけて学んでいくこの信仰問答の大きな目次ですが、そこで先ず私たちが知るべきこととして挙げられるのは「どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか」ということでした。信仰問答が「ただ一つの慰め」として教える福音は、まず私たちを自らの罪の現実に向き合わせます。ここにこの「慰め」が単なる気休めや安易な慰めとは全く異質なものであることが示されます。聖書は私たちを本当の私の姿と出会わせる書物です。偽りの自分を見せたり、気休めの言葉で紛らわせたり、現実から目を逸らさせる耳障りの良い言葉で惑わすことをせず、私たちにとっては決して喜ばしく心地よいものではないけれども、しかし私たちが真の慰めを得るためにどうしても向き合わなければならない罪と悲惨とにしっかりと向き合わせるのです。なぜならそこからこそ本当の救いへの道が開かれるからです。聖書の差し出す救いは私たちの人生を根本から作り替え、新しいいのちへと歩み出させる力であり、しかも地上のいのちと死を超えて永遠へと繋がる力あるものです。そしてそれゆえに私たちはこの救いに与る時に、その与え主である神に心からの感謝を捧げ、自らを捧げて生きるものとされるのです。

(3)私たちは主のもの
 ラウハウスというドイツの牧師が記した信仰問答書の説教集にこんな言葉があります。「信仰問答の冒頭の問いはこう書き換えてもよい。『生きているときも死ぬときも、あなたを支えるものは何でしょう』。あるいはまた、『生きているときも死ぬときも、あなたは何に頼っていますか』。あるいはまた、『生きているときも死ぬときも、何があなたを強くさせますか』。問題になっているのは、生きる勇気であり、死に際の確信だ」。この人生最大の問い、究極の問いに対する信仰問答の答えは、先のローマ書14章にある「私たちは主のもの」ということでした。
 父なる神が私を愛して、御自身の愛する御子イエス・キリストのものとしていてくださる。だから私たちは生きるにしても、死ぬにしても主のものである。これが私たちにとっての究極の拠り所、私を支え、生かすものなのであり、私たちの現実なのです。聖書の約束は、ただ言葉だけの、観念的な思弁の繰り言ではありません。それはまさしく信仰者の一人一人の生涯の中に具体的にかたちをとってあらわれる生きた証しに他ならないのです。

 



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