祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解57

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」(ピリピ3:12)

(1)罪との戦いの生
第92問から第113問までかけて十戒の解説を学んできましたが、今日取り上げる第114問と第115問はハイデルベルクの十戒論のまとめの箇所です。ここではハイデルベルクの律法理解が最も鮮やかに現れており、また救われてなお罪との戦いの中に生きる信仰者たちの現実と、そこに対する慰めと励ましに満ちた教えが語られている大変重要な箇所と言えるのです。そこでまず第114問を見ておきましょう。「問:それでは、神へと立ち返った人たちは、このような戒めを完全に守ることができるのですか。答:いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません。とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」。
ハイデルベルクは、十戒の教えを論じた最後に、「神へと立ち返った人」すなわち悔い改めて信仰者となった人々に「このような戒めを完全に守ることができるか」と問います。しかしこれに対する答えは「いいえ。それどころか最も聖なる人々でさえ、この世にある間は、この服従をわずかばかり始めたにすぎません」と言われるのです。これは主イエスの贖いによって義とされた私たちが、しかしなおそこに残る肉なる人、古い人の罪の残滓との深刻な戦いの現実を教えるものです。私たちはすでに主にあって義なる者とされているのですが、しかしなおこの地上にあっては罪との戦いが続いているのです。その意味では律法への服従を「わずかばかり始めたにすぎません」。しかしだからといって、私たちは罪との戦いを放棄して「どうせ律法を守れはしない」と諦めてしまうのかといえば、そうではありません。「とは言え、その人たちは、真剣な決意をもって、神の戒めのあるものだけではなくそのすべてに従って、現に生き始めているのです」。この「わずかばかり始めたに過ぎない」、「とは言え、現に始めている」という両面が重要です。ここでは信仰者の罪の現実に対する二つの誤った考え方が退けられているのです。すなわち罪との戦いに対して最初から諦めてしまっている静寂主義・敗北主義と、その一方で自らをもってすでに罪に対して完全な勝利を得ているとしてしまう完全主義という考え方です。しばしばハイデルベルクに代表される律法理解、すなわち救われた者の感謝の規準としての律法理解は、そのような完全主義と取られることがありました。しかしこの第114問を読む限り、そのような理解は一面的であることは明らかです。むしろここには救われてなお罪と真摯に向き合い、日々悔い改めつつ恵みにすがり、神への服従の生をわずかばかり始めたに過ぎないというへりくだりの姿勢と、しかしなお神の戒めに服従しつつ罪との戦いに果敢に挑んでいくという真剣な決意の姿勢とがあるのです。

(2)義認と聖化の恵み
それでは人が救われてなお完全に守ることのできない律法が私たちに教えられることには、一体何の目的や理由があるのでしょうか。このことを第115問から学びましょう。「問:この世においては、だれも十戒を守ることができないのに、なぜ神はそれほどまで厳しく、わたしたちにそれらを説教させようとなさるのですか。答:第一に、私たちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです。第二に、わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです」。
ここで教えられているのはすでに第一部の「人間の悲惨さについて」の箇所で学んだ律法の三用法(用益)に関する事柄です。第115問で私たちに十戒が与えられているこの目的が二つ挙げられていますが、その第一の「私たちが、全生涯にわたって、わたしたちの罪深い性質を次第次第により深く知り、それだけより熱心に、キリストにある罪の赦しと義とを求めるようになるためです」という目的は、律法の三用法でいう第一用法すなわち教育的用法と呼ばれるもので、私たちに罪を認識させ、キリストの救いを求めさせるためのものです。続く第二の「わたしたちが絶えず励み、神に聖霊の恵みを請うようになり、そうしてわたしたちがこの生涯の後に、完成という目標に達する時まで、次第次第に、いよいよ神のかたちへと新しくされてゆくためです」とは、律法の第三用法、つまりハイデルベルクをはじめ改革派の伝統において最も重視される用法で、制令の恵みを信頼しつつ絶えず感謝の業に励むためのものです。このように第115問は、前の第114問で静寂主義と完全主義を退けた後に、罪の赦しと義を求め(義認)、神のかたちへと新しくされていく(聖化)ために、十戒は今の私たちにとって重要な戒めであることを教えているのです。
つまり、この十戒論の締めくくりの第114問と115問は、義認と聖化の教えの総括でもあるのであって、この箇所は第60問と第70問と比較して読むことによってその意味することを正しく受け取ることができるでしょう。すなわち第60問で「問:どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか。答:ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、『お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」、また第70問で「キリストの血と霊とによって洗われるとは、どういうことですか。答:それは、十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって、神から罪の赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです」とある通りです。しかも第115問においては義認も聖化も「次第次第に」、「より〜に」、「いよいよ」という完成に向かうプロセスを大切にしています。義認と聖化の恵みにあずかる信仰者の歩みは、罪との真剣な戦いの生涯であると同時に「ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っている」(ピリピ3:13-14)、そのような信仰者の生なのです。 


 

 



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