祈祷会

ハイデルベルク信仰問答講解49

「あなたがたは、わたしの名によって、偽って誓ってはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは主である。」(レビ19:12)

(1)主の御名の聖さ
先週に続いて十戒の第三戒について学びます。前回学んだ第99問では主の御名の冒涜と乱用とが禁じられましたが、続く第100問でその理由が明らかにされます。「問:それでは、呪いや誓約によって神の御名を冒涜することは、それをできうる限り阻止したり禁じたりしようとしない人々にも神がお怒りになるほど、重い罪なのですか。答:確かにそのとおりです。なぜなら、神の御名の冒涜ほどこの方が激しくお怒りになる罪はないからです。それゆえ、この方は、それを死をもって罰するようにもお命じになりました」。第三戒の違反が死罪に値するほどの罪として挙げられる理由は一体何でしょうか。それは突き詰めれば、神の名の持つ神御自身の存在の表れと関係しているのです。主なる神がご自身について与えられた呼び名について、これほど厳格な要求をされるのは、それが単に神の呼び名の問題ではなく、そこに神様の存在そのものとその聖さとが関係しているからです。 
神の名について出エジプト記は次のように語っています。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたら良いのでしょうか」。すると神は答えられます。「わたしは、『わたしはある』という者である。あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と」(出エジプト3:13-14)。この「わたしはある」がいわゆる「ヤハウェ」という神の名、ユダヤ人が聖四文字と呼んだ神の名です。そこには神の永遠において存在し、しかも孤独の神としてではなく私たち被造物との交わりを持ちたもう生ける神の存在の本質が現れているのです。ゆえにこの神の名をみだりに唱えることは、神の存在を冒涜することに繋がるゆえに、それが厳しく戒められるのです。

(2)御名による誓いの許容
以上のような原則を掲げた後に、ハイデルベルクは当時の教会が置かれていた具体的なケースを念頭に置きつつ、特に神の御名を用いての誓いということに集中して、その許される場合と禁じられる場合について教えています。まず第101問を見ましょう。「問:しかし、神の御名によって敬虔に誓うことはよいのですか。答:そのとおりです。権威者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合です。なぜなら、そのような誓いは、神の言葉に基づいており、旧約と新約の聖徒たちによって正しく用いられてきたからです」。
神の御名により、しかもそれが冒涜や乱用でなく、敬虔に用いられて誓うということが許されているか、いるとすればそれはどのような場合かとハイデルベルクは問います。それに対して、御名による敬虔な誓いがあり得ることが教えられ、それが特に「権威者が国民にそれを求める場合、あるいは神の栄光と隣人の救いのために、誠実と真実とを保ち促進する必要がある場合」と説明されます。これはいわゆる律法の市民的な用法に関わる事柄であり、裁判における宣誓を初めとして、通常の市民生活の中でこの世の権威者が求める誓約に対する態度に結びつくものですが、この議論の背景には当時の再洗礼派と言われる急進派グループの存在がありました。彼らは自分たちがすでに神の国に所属しているゆえに、地上のあらゆる権威には服さないとして、裁判や宣誓、納税や兵役を一切拒否する姿勢を持っており、その聖書的な根拠として十戒の教えを踏まえての主イエスの「決して誓ってはいけません」(マタイ5:37)を掲げていました。これに対してハイデルベルクは権威者の求めに一市民として応じるべきこと、しかもそれが国家の権威の要求以上に神の栄光と隣人の救いに照らして是とされる場合には、誠実と真実とを保ち促進するためにこれを行うことを認めているのです。信仰者は神の国の民として天に国籍を持ちながら、しかも神の国の成就を待望しつつこの地上に生きるものです。その天と地の狭間にあって、神の主権がこの世の権威の上にあることを認めつつ、しかも地上の権威が神の主権のもとにある限りにおいてこれを尊び、これに従うことが求められています(ローマ13:1-2)。しかしそれと同時に地上の権威が神の主権を越え出ようとする時には、断固として否の声を上げなければならないのです。

(3)被造物による誓いの禁止
続いて、御名による誓いが禁止される場合について第102問を見ましょう。「問:聖人や他の被造物によって誓うことはよいのですか。答:いいえ。なぜなら、正当な誓いとは、ただ独り心を探る方である神に、真実に対してはそれを証言し、わたしが偽って誓う時にはわたしを罰してくださるようにと呼びかけることであり、このような栄光は、いかなる被造物にも帰されるものではないからです」。
誓約とは一種の契約関係を意味しますが、二者の間で立てられる誓約にはその証人が必要とされる場合があります。ここでハイデルベルクはそのような誓約の確かさの保証が聖人や他の被造物によって担保されるかを問うていると言えるでしょう。それについての答えは明白です。誓約をすることは、その誓いに対する真実が保証され、不真実が裁かれることを承認し、服することを含んでいますが、そのような人の内面までも貫いて真実を見極められるのは創造主なる神以外にはありえないことです。そのように考えるならば、この神の御前にあるという自覚なしの誓約がいかに軽く、不確かなものであるかもまた明らかです。神を恐れることなしに、人の前に誓うことは第三戒の違反となる。このことの意義を今日の私たちの生活に当てはめるなら、ひとりの市民として責任ある発言をし、行動をすることの意味づけもまた新たにされるのではないでしょうか。

 

 

 



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