祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解47

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。」(出エジプト20:4)

(1)偶像礼拝の禁止
 今日の第35主日では、十戒の第二戒である偶像礼拝の禁止について教えられています。まず第96問を見ましょう。「問:第二戒で、神は何を望んでおられますか。答:わたしたちが、どのような方法であれ神を形作ったり、この方が御言葉において命じられた以外の仕方で礼拝してはならない、ということです」。十戒の第一戒がまことの神以外を神とすることを禁じているのに続いて、第二戒では正しい神礼拝以外の仕方で神を礼拝することを禁じています。「私たちは単に偽りの神々を拝む傾向にあるだけではなく、自らの真の神を偽りの像に仕立てることさえするのである」(ペリー)とある通り、私たちはまことの神を誤った仕方で礼拝する偶像礼拝に陥りやすい者であることを自覚する必要があります。天地万物を創造された主なる神は、この世界のあらゆる被造物によって表現されることのない、永遠、不変、無限なるお方です。ですからこのお方を私たちはいかなる表象をもってしても表現することはできないし、有限な線によって無限なる神を括ることは出来ないのです。このことは、しかし裏返してみれば、人間がいかに目に見えるものによって支配されやすいかを示しているとも言えるのです。出エジプト記32章によれば、十戒がシナイ山の上でモーセに授けられていた時、イスラエルの民はモーセが山から下りてこないことに痺れを切らし、アロンのもとに来て「さあ、私たちに先立っていく神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どなったのか、私たちには分からないから」(32:1)と言いました。そして人々の持ち物の中から金を集めるとそれで鋳物の子牛を造り「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ」(32:4)と言ったのです。このことによってイスラエルは神に罰せられるのですが、それは彼らが主なる神を否定して、他の神として金の子牛を拝んだからというよりも、むしろこの金の子牛像をもって自分たちをエジプトから連れ上った神を表現したからなのです。しかし唯一まことの神はそのようにして人の手によって姿形を作り上げることの出来るようなお方ではないのです。

(2)御言葉の生きた説教によって
 さらに第97問にはこうあります。「問:それならば、人はどのようなかたちをも造ってはならないのですか。答:神は決して模造されえないし、またされるべきでもありません。被造物については、それが模造されうるとはいえ、人がそれを崇めたり、またはそれによってこの方を礼拝するために、そのかたちを造ったり所有したりすることを、神は禁じておられるのです」。
 主なる神は十戒の第二戒において「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」と語られて徹底的な偶像による神礼拝の拒否とその理由を教えられます。絵画や像を用いてまことの神を礼拝すると人がどんなに言ったとしても、主なる神はそこに嫉妬を燃やされる。霊とまことによる礼拝が捧げられなければ、必ずその礼拝は信仰の対象から離れていくのです。かつて古代の信仰者たちは「祈りの法が、信仰の法」と語りましたが、まさしくどのようにして神を礼拝するかが、どのようにして神を信じているかを証しすることになるのです。
 しかし同時に、私たちが偶像による礼拝を拒絶するのは、目に見える物質世界を悪とし、目に見えない精神世界を善とするようなグノーシス的二元論に陥ることを意味していません。聖書の神は抽象的な精神世界の存在ではなく、この世界と歴史の中にご自身を啓示され、ご自身の民と関わり、そこに嫉妬の思いを抱くほどに愛を傾けられる生ける神であられます。ですから偶像礼拝の禁止は、いわばそこに生ける神の具体性が問われていると言えるのです。一体私たちは生ける神をどこに探すのか。どんなに美しくとも物言わぬ平面的なキリストの絵画の中にか、今にも動き出しそうな躍動感に溢れながらも、しかしそこに血の通った暖かみのない立体的なキリスト像の中にか。そうではないのです。主イエス・キリストは言われます。「私を見た者は父を見たのです」(ヨハネ14:9)。主イエス・キリストにおいてのみ、生ける神がそのかたちをもって現れる。神を見たければ、イエス・キリストを見よ、ということなのです。しかもそれは絵画や彫像のキリストではない、聖霊において現臨される生けるまことの主イエス・キリストなのです。第98問は言います。「問:しかし、画像は、信徒のための書物として、教会で許されてもよいのではありませんか。答:いいえ。わたしたちは神より賢くなろうとすべきではありません。この方は御自身の信徒を、物言わぬ偶像によってではなく、御言葉の生きた説教によって教えようとなさるのです」。この時代、主イエス・キリストは御言葉の生きた説教によってご自身を鮮やかに示してくださいます。これは福音の説教を考える上で非常に重要なことです。神の御言葉が語られる時、そこにキリストの生き生きとした臨在が証しされる。聖礼典、特に主の晩餐も「見える御言葉」と言われる点で同様です。そこにキリストの臨在が証しされることが何よりの中心です。私たちの霊とまことをもっての礼拝は、真摯に神の生ける御言葉の説教に聞き、聖礼典に与ることによってあらわされ、そこに聖霊の神が働いて下さる時、私たちはあたかも主なる神を目の当たりに見るかのようにして、この神の臨在の前に立つことができるのです。ドイツの告白教会で戦ったボンヘッファーは、かつて人間的価値を神格化する教会を「アロンの教会」と呼び、神の御言葉によって生きる教会を「モーセの教会」と呼びました。偶像による神礼拝でなく、御言葉による霊とまことからなる神礼拝を、モーセの教会として捧げ続けているものでありたいと願います。


 



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