祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解40

「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」(Iコリント11:27-29)

(1)ローマ・カトリックのミサ批判
主の晩餐の教理を一通り説明した後で、第80問では当時の宗教改革者たちが向き合っていた最大の課題であるローマ・カトリックのミサ聖祭の問題が取り上げられます。宗教改革の当初は、ローマ教会に対抗する勢力を作り上げるという意図は、改革者たち自身にもあまりなく、むしろローマ・カトリックの教会改革という色彩が濃かったのですが、第二世代に入ってくると、カトリックとの教理的な違いや次第に鮮明になり、国家や都市を挙げて改革に踏み切るところが増えるに連れて、カトリック側もこれに対抗しようという機運が高まってきました。そこで大きな問題となったのが、啓示の理解や救いの理解、そしてミサ聖祭の問題でした。一般に「対抗宗教改革」といわれるトリエント公会議では、前回学んだミサにおける化体の教理が確立し、いよいよ両者の違いは明らかにされていったのです。
それらを踏まえてこの第80問を見ると、宗教改革の教会とローマ・カトリックの教会との違いは大きく次のようにまとめられています。まずハイデルベルクが教える主の晩餐の教理では、キリストの犠牲は一回限りの完全なものであり、そしてキリストは今、天の御父の右にあると主張されます。これは特にヘブル書が繰り返し主張する点です。これに対してカトリック側のミサ聖祭の教理では、キリストの犠牲はこの祭儀の度に繰り返されており、しかもキリストはミサ聖祭の度にパンとぶどう酒のもとにあるとされるのです。つまりここには、主の晩餐があのゴルゴダの十字架においてキリストが成し遂げられた一度きりの完全な贖いの御業に、信じる私たちが聖霊によって結び合わされていく恵みの礼典であるのに対して、ミサ聖祭は、そこで司祭が行う儀式や、そこで語られる言葉、所作、扱われる物素など、ミサという一つの業に効力があるとされます。ハイデルベルクがミサ聖祭を指して「呪われるべき偶像礼拝に他ならない」と厳しく断じるのもこのような理由によっているのです。

(2)主の晩餐に与る自己吟味
 以上のようなカトリックのミサ聖祭においては、儀式に参加し、そこでの業に与ることが重要ですから、そこでは陪餐者の信仰が問われることはないのですが、しかしハイデルベルクが聖書に聞きながら私たちに教えているのは、むしろ私たち陪餐者の信仰吟味、自己吟味の必要性です。そこで第81問では「どのような人が、主の食卓に来るべきですか」と問われます。これに対しての答えは「自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです」と語られます。
 信仰者の自己吟味には罪の自覚と悔い改めが必須ですが、しかし肝心なのは「〜しながらも」として、続く赦しの確信と信仰の強化、生活の聖化へと繋がっていく点です。罪の悔い改めで立ち止まったままではなく、自分の罪を十分に自覚しつつも、そこからなお赦しを確信して聖化へと進む。この順序が大切なのです。この聖霊が成し遂げて下さる信仰の道筋を捕らえる時に、私たちの自己吟味は単なる自己嫌悪に終わることなく、そこから赦しの道を辿り、天を仰ぎつつ信仰から信仰へと進んでいくことができるのです。しかし続く部分で「しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」と教えられます。礼拝の交わりの中に悔い改めない者、偽善者たちの存在があることを聖書は「毒麦」のたとえによって明らかにされていますが、それは終わりの日において明らかにされることですので、私たちはそれが一体誰であるかを知ることもできませんし、詮索することも許されていません。しかし、はっきりしているのはそのような人々は主の晩餐に与ることで自分に対する裁きを飲み食いしているということです。

(3)主の晩餐の聖さと鍵の務め
 この点が続く82問と、第31主日以降の「鍵の務めについて」で論じられる、いわゆる教会の訓練、または教会戒規の問題に繋がっていきます。ここでは、教会に与えられている鍵の務めが、そもそも主の晩餐の食卓の聖さの保持と密接に結びついていることだけを指摘しておきたいと思います。教会の交わりの中心に御言葉と聖礼典が据えられているならば、この主の晩餐の執行には十分な注意が払われてしかるべきです。この恵みに与るに当たり、陪餐者たちが自らを自己吟味するためには一週間では短いぐらいです。そしてまた主の晩餐を重んじる教会は、同時に教会に与えられた鍵の権能についても、これを正しく執り行う教会でなければなりません。かつて宗教改革の教会は、そこに主の教会があることの目印として「御言葉の説教」と「聖礼典の執行」、そして「教会訓練の実施」を挙げました。これは今日においても重要な目印として意味を担っていると思います。分けても、教会訓練を御言葉の教えに基づいて正しく執行できるかが、教会のあり方を決するポイントにもなるのです。この点は次回以降学びますが、とにかく、鍵の務め、教会訓練と主の晩餐とが分かちがたく結びついていることを確認しておきたいと思います。

 



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