祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解39

「そこで、兄弟たち。私はあなたがたにぜひ次のことを知ってもらいたいのです。私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」(Iコリント10:1-4)

(1)聖餐を巡る諸説
今日取り上げる第78問、79問では、キリストの御体と血と、パンとぶどう酒との関係について説明されています。まず78問を見ておきましょう。「問:それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。答:いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるのでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです」。ここではパンとぶどう酒がキリストの体と血と呼ばれることがどのようにして可能となるかが問われるのですが、このような議論がなされる背景には、主の晩餐におけるキリストの臨在の様式を巡ってカトリック、プロテスタント、その内部を巻き込む大きな問題が横たわっていました。
まず当時のカトリック教会においては、パンとぶどう酒が実体的にキリストの体と血に変化し、キリストは実質的にパンとぶどう酒という物素の中に存在するといういわゆる「化体説」が主張されました。これに対してプロテスタント教会においては大きく三つの立場がありました。第一はルターの立場です。ルターは聖餐制定辞の「これはわたしの体である」という御言葉の約束をそのまま受け取り、パンとぶどう酒が実体的に変化することはないにしても、それらの物素と「ともに」、物素の「中に」、物素の「下に」キリストが現臨されるといういわゆる「共在説」を主張しました。このようなルターの立場をカトリックに限りなく近いものとして批判したのが、第二のチューリヒの改革者ツウィングリの立場です。ツウィングリは同じくIコリントの「これはわたしの体である」の「である」を「意味する、象徴する」と理解して、あくまでも聖餐におけるパンとぶどう酒はキリストの体と血の象徴に過ぎず、主の晩餐はキリストの贖いの記念、想起であるとしたのです。これに対して第三の立場を取ったのがカルヴァンでした。カルヴァンはツウィングリの象徴説を批判し、ルターのように主の晩餐におけるキリストの現臨を主張しました。しかしさりとてそれをルターのようにパンとぶどう酒という実体と結びつけることはしませんでした。そこでカルヴァンが主張したのは、地上におけるパンとぶどう酒を通して天におけるキリストの臨在にあずからせるのは聖霊なる神の働きであるということでした。私たちが信仰を持ってこれを食する時に、聖霊なる神の働きによって私たちはキリストの体と血にあずかっているのだと教えたのです。

(2)キリストの臨在のリアリティー
 以上のような議論を踏まえて第78問を読むと、そこではまずカトリックの化体説が明確に否定されていることが分かります。そして続く第79問において、私たちがパンとぶどう酒を食することがキリストの体と血にあずかることになることの意味が明らかにされるのです。「問:それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。答: キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のために、わたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、    この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は自に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです」。
 このように主の晩餐の勘所は聖霊の神の働きであり、信仰であることがよく分かります。私たちが信仰を持って食する時に、パンとぶどう酒を通して十字架の主イエス・キリストの体と血とが永遠の命のための、私たちの魂のまことの食べ物、飲み物となるのです。これは信仰なくしては成り立ち得ない事柄であって、ここに信仰者がキリストにあずかることの祝福が根拠づけられるのです。

(3)聖霊によるキリストの現臨
 さらに、聖霊が私たちを主の晩餐を通してキリストに結びつけると言う時、そこで起こっているのは「あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということ」でもありました。生涯を通しての苦しみ、十字架による死、葬り、陰府下り、そして復活、召天、着座に至る主イエス・キリストの苦難から栄光へと進まれたその苦難と従順の御生涯の全体が、聖霊の神のお働きによって「確かに私たち自身のものとされる」のです。私たちがあずかるのはキリストにある救いと栄光だけではなく、苦難と従順でもある。このことの意義をも、私たちは主の晩餐にあずかる度毎に、繰り返し繰り返し味わい知る者でありたいと願います。

 



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