祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解32

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」。(ヨハネ15:5)

(1)善き行いの意義
先週に続いて今日の第24主日では信仰者の為す「善き業」の問題が取り上げられます。まず第62問は「なぜ、わたしたちの善い行いは、神の御前で義またはその一部にすらなることができないのですか」と問います。前回にも触れたように、この問答の背景にあるのは当時のカトリックの救いの理解、すなわち人間の行いによる義が自らの救いのために用いられるとする考えでした。全部とは言わずとも、人間の救いについて自らの善行にも占める位置があるのではないか、という問いです。しかしそれについて聖書の教えは明白です。パウロがローマ書3章で「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)と記し、また「律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです」(同3:20)と記した通りです。従ってこのローマ書の御言葉に沿ってハイデルベルクも次のように答えています。「なぜなら、神の裁きに耐えうる義とは、あらゆる点で完全であり、神の律法に全く一致するものでなければなりませんが、この世におけるわたしたちの最善の行いですら、ことごとく不完全であり、罪に汚れているからです」。
 確かに人間がみな罪人であるからといって、四六時中罪を犯し続けているという訳ではないかも知れません。ある程度の善行をすることもあるでしょう。しかしだからといってそれをもって私たちが自らを神の御前に義なる者とすることができるかといえば、決してそうではないのです。むしろ私たち人間の存在そのものが神の御前に罪ある者なのであって、その根本的な神の御前での位置が変えられることがなければ、決して私たちが義とされることはありません。まさしくそれは神の恵みによって与えられる立場であり、身分なのです。ある神学者は人間の堕落の現実を「構造性」と「方向性」という言葉で表現しました。神の像に作られた人間は、堕落したとは言えその「構造性」は失ってはいませんが、しかしその神に向かう「方向性」において決定的に失われた存在であるというのです。このことの区別をわきまえることは大切なことです。
 ですから第63問でも次のように言われるのです。「しかし、わたしたちの善い行いは、神がこの世と後の世でそれに報いて下さるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。その報酬は功績によるのではなく、恵みによるのです」。

(2)キリストに接ぎ木された人
 このようなプロテスタントの善き行いと救いの問題は、当時からカトリック側の次のような反論を引き起こしていました。「この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」。つまり人間の救いに善い行いが不必要であるとすれば、たちまち人間は善い行いをすることをやめて放縦な生活に走るのではないかと言う主張です。実はこのような議論はなにも宗教改革時代に始まった者ではありませんでした。むしろ教会が救いの教えを語り続けてきた歴史の中で絶えず繰り返されてきた議論でした。たとえば古代の教父アウグスティヌスも、ペラギウスと言う人と救いは神の恩恵によるか否かを巡って論争をしましたし、そもそもパウロがローマ書6章で行った議論がその出発点でありました。
 「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」(ローマ6:1-8)。
 また次のようにも言われています。「それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです」(同6:15-18)。
これらを要約してハイデルベルクは次のように言い表しました。「いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」。ここから十戒と主の祈りを救われた者の「感謝の生活」の項目で取り上げるハイデルベルクの基本的な線が浮かび上がってくるのです。とはいえ、私たちの前には、感謝の実を結ぶどころか、むしろ救われてなお罪を犯す現実があります。なお私たちには父なる神の御子イエス・キリストによる赦しの恵みが必要であり、また聖霊の助けが必要です。そのことを切に祈り求めながら、感謝の生活に進む私たちでありたいと願います。

 



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