祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解31

「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。(ローマ1:16-17)

(1)信仰による義
前回までで使徒信条の解説を終わって、今日取り上げる第59問から第64問にかけては再び福音の中核である「信仰義認」の教えが繰り返されます。これまで再三信仰による義について教えてきたハイデルベルク信仰問答が、使徒信条の解説の後にここで再び信仰義認の問題を取り上げるのはなぜでしょうか。それはこの後に聖礼典の執行についての教えが控えていることと関係があります。その前に、この第23、24主日における義認の教えの扱いは、行いによる義との対比で語られていることに注目したいのです。つまり、ここでは聖礼典にあずかることを善行と見なし、それによって自らの救いを得ようとするあのカトリックのミサ聖祭に対する否定と、福音主義的な信仰理解が何であるかの確認がなされているのです。
 まず第59問では「それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けになりますか」と問われます。この「どのような助けになるか」という問いかけは、「どのような益があるか」とも訳せる言い方で、信仰の益を問うというハイデルベルクの特色ある問い方がここでも繰り返されているのです。これに対しての答えは次の通りです。「わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる、ということです」。今わたしたちは罪ある者として神の法廷に立っています。そこで私たちが受けるべきは自らの罪への報いとしての有罪判決と、その罰としての死と滅びのはずでした。ところが神はその裁きを私に下すことをなさらず、むしろ罪なき神の御子イエス・キリストに有罪を宣告し、その裁きを下されたのです。その結果、私たちはこのキリストにあって、すなわちキリストの贖いを受け、キリストの獲得して下さった義が聖霊なる神によって私たちにもたらされ、贖い主キリストに結びつけられることによって、神の御前にあたかも罪なき者のように無罪の判決を言い渡されたのです。そしてこの時、私たちは罪が赦されたばかりでなく神の子としての身分を与えられたので、永遠の命という祝福を相続する恵みにまであずかる者とされているのです。

(2)恵みによる救い
 そこでこの「神の御前における義」がどのようにして私たちにもたらされるかを教えるのが次の第60問です。ここは分量からも内容からもこの一連の問答の中心と言えるような箇所です。その答えを見ておきましょう。
 「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、『おまえは神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらず、ただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果たされた服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」。
 ここには主イエス・キリストがわたしのために成し遂げてくださった贖いと、その結果与えられた祝福とが言い表されています。特に「あたかも〜のようにみなしてくださいます」という言い方の中に、義認の本質が言い表されているとも言えるでしょう。カトリックの功績思想によれば人間はキリストの義が注入されてその存在自体が「義となる」(義化)と教えましたが、私たちの理解ではそれはあくまでも「義と認められる」(義認)であり、「義と宣言される」(宣義)なのです。
 このようにして神がキリストにおいて差し出して下さった救いの恵みを、では私たちはどのようにして自らのものとすることができるのか。第61問は次のように答えています。「わたしは、ただ信仰による以外に、それを受け取ることも、自分のものにすることもできないからです」。ここでもまた「信仰によって」と言われますが、気を付けなければならないのは、信仰によって義とされると言うときの「信仰」が、「信仰」という「善行」に誤解されてはならないということです。わたしが信じるという行いによって義とされるとなると、これはもはや聖書の教える信仰理解ではなくなるのです。この点に私たちの立場、すなわち宗教改革者たちが戦った福音主義信仰の核心があると言ってもよいのです。改革者たちは信仰のことを「救いを受け取る手」であると表現しました。それはこちらが身を乗り出してつかみ取る手ではなく、差し出されたよきものを喜んで受け取る幼子の手です。そのことが最も鮮やかに示されのが後に出てくる聖礼典の、とりわけ主の晩餐の礼典の持つ恵みです。差し出されたキリストのからだと血を受け取ることに、キリストの恵みを受け取る信仰の姿が表されているのです。

 



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