祈祷会                               
ハイデルベルク信仰問答講解23

 始めにヘブル書4章14節の御言葉を読みましょう。「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか」。(ヘブル4:14)

(1)キリストの昇天
今日取り上げる第18主日は、使徒信条の「天に昇り」という告白すなわちキリストの昇天について教えている所です。第46問に次のようにあります。「あなたは『天にのぼり』をどのように理解しますか」。十字架にかかり、三日目によみがえられた主イエス・キリストが40日間の顕現の後に天に挙げられたことを聖書は次のように記しています。「それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れていき、手を上げて祝福された。そして祝福しながら、彼らから離れて行かれた」(ルカ24:50-51)。「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた」(使徒1:9)。
 ここで問題とされているのは、今、私たちの主イエス・キリストは何処におられるのかということです。ハイデルベルクはこれについて使徒信条に拠って答えています。すなわち「天」におられ「全能の父なる神の右に座して」おられるというのです。この挙げられたキリストはやがて再び地上に来たりたもうのですが、このキリストの再臨については今日は触れません。むしろここで集中的に考えるべきは、挙げられたキリストの御臨在を私たちはどのようにして信じるべきかということなのです。

(2)挙げられたキリストの臨在
第47問を見ましょう。「それでは、キリストは、約束なさったとおり、世の終わりまで私たちと共におられる、というわけではないのですか」。キリストが今、天にあるということと、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)の約束とは矛盾するのではないか、というこの問いは少々穿った響きを持つものですが、なぜハイデルベルクはこのような問いを発するのでしょうか。それはキリストの臨在をどのように確信するかが、私たちの信仰に大きく深く影響を与えるということをこの問答が知っているからなのです。
 これについては次のよう答えられます。「キリストは、まことの人間でありまことの神であられます。この方は、その人間としての御性質においては、今は地上におられませんが、その神性、威厳、恩恵、霊においては、片時も私たちから離れてはおられないのです」。ここでハイデルベルクは再び仲保者キリストの二性(神性と人性)を取り上げます。そして人性においてはキリストはその復活の御体をもって昇天されたので、今は地上におられないが、しかし神性においては常に私たちと共にあると教えています。これは単純に肉体と霊という二元化に置き換えることのできない重要な教えです。むしろここで言われる「神性、威厳、恩恵、霊」とは、引照聖句であるヨハネ14章によれば「助け主なる真理の御霊」のことです。つまり挙げられたキリストは、今も御霊において我らと共にあると教えられているのです。さらにこの点を詳細に語るのが第48問です。「問:しかし、人間性が神性のある所どこにでもある、というわけではないのならば、キリストの二つの性質は互いに分離しているのではありませんか。答:決してそうではありません。なぜなら、神性は捉えることができず、どこにでも臨在するのですから、確かにそれが取った人間性の外にもあれば、同時に人間性の内にもあって、絶えず人間性と人格的に結合しているのです」。
ここからは相当入り組んだ神学議論になってしまいますので、あまり詳しい話はできませんが、要するに「だからといって神性と人性とは区別されるか」と言えば決してそうではない。確かにキリストの人性は天にあるが、かといって偏在するキリストの神性と人性とは不可分である。その存在の在り方を受けとめなければならないということなのです。これは思弁的な議論になりがちですが、問題の中心は主の晩餐におけるキリストの臨在の在り方を巡ってのことです。キリストの神性と人性とは分離されないならば、パンとぶどう酒におけるキリストの臨在もまたまさしく「肉と血」における臨在ではないかとある人々は考えました。それに対してハイデルベルクは(もとをたどればカルヴァンですが)、確かにパンとぶどう酒にキリストは現臨したもうが、それはそこにキリストの人性が存在するのではなく、あくまでも天にあるキリストの人性が聖霊において臨在しているのだと教えたのです。御霊においてキリストは今も臨在したもう。これは私たちの礼拝生活の中核を形作る確信です。私たちは天におられる挙げられたキリストを仰ぎながら、しかしその天にあるキリストが聖霊において私たちと共にいましたもうことに慰めと救いの確かさを見出すことができるのです。聖書は聖霊なる神を「保証」と呼び、また古来から教会は聖霊を「絆」と呼んできましたが、これは天にあるキリストへと私たちを結びつける聖霊への信仰の告白なのであり、天にあるキリストへと結び合わされることが私たちの希望なのです。
 
(3)キリストの昇天の益
 ですから第49問でもやはりキリストの昇天の「益」が問われることになります。ここで語られていることを要約すれば次のようになるでしょう。すなわち私たちが聖霊によって挙げられたキリストと一つに結び合わされること、そのことの確かな保証として、まずキリストが挙げられて今、天におられること、そして今まさにこの挙げられたキリストが父なる神の右にあって、その面前で私たちの弁護者として絶えずとりなしていて下さると言うこと、それがキリストの昇天の益であるということです。つまり一言で言えば、キリストの昇天は私たちがやがて挙げられることの希望としての意味を持っている。それこそが益であるということです。この意味で、私たちの信仰は「希望」によって基礎付けられ、方向付けられていると言えるのです。

 



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