祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解22

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです」。(ローマ4:25)

(1)よみがえりのもたらす益
問45では「キリストのよみがえりは、私たちにどのような益をもたらしますか」と問われています。ここでもハイデルベルクの特色である「私たちの益」を問う問い方が出てきます。ここでまず注目したいのは、ハイデルベルクが「キリストのよみがえりとは何か」ということを問わずに、すぐに「キリストのよみがえりの益は何か」を問うということです。以前に学んだキリストの処女降誕の時にもお話ししましたが、18世紀の啓蒙主義以降の時代、人間の価値判断の基準は聖書の基準ではなく人間の理性の光に取って代わられてしまいました。人間の理性に照らして合理的なそうでないかで物事の価値が決まるようになったのです。そうしますと、キリストが処女マリヤから生まれたという聖書の教えが非理性的、非合理的であるとして退けられたのと同じように、キリストの復活にもそれと同じ矛先が向けられることになったのです。それと対応するようにこの後の時代、教会はキリストの復活の合理性を証明するために躍起になってきましたが、それと引き替えにハイデルベルクが持っていたようなキリストの復活の私たちへの益を語るという豊かな語り口を失ってきたことも事実です。ところが、ハイデルベルクは復活が事実であったかを問うことには関心を持ってはいません。その事実性を証明してからその先に進む、という順序ではなく、もう復活は事実起こったのだという大前提のもとで、その益を問うているのです。ここには聖書の持つ復活信仰が大きく脈付いています。パウロはコリント人への手紙の中で次のように語りました。
 「ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」(Iコリント15:12-22)。
 ここでパウロが語っていることは、復活の事実性はその合理性や史実性によって確かめられるのはもちろんのこと、何よりも復活の事実によって生きている人々、復活の命に生かされる教会の姿においてこそ明確に示されているということなのです。

(2)よみがえりのもたらす益の過去・現在・未来
さて、ハイデルベルクは復活信仰のもたらす益を三つにまとめて説明しています。「第一に、この方がそのよみがえりによって死に打ち勝たれ、そうして、御自身の死によって私たちのために獲得された義に私たちを与らせて下さる、ということ。第二に、その御力によって私たちも今や新しい命に生き返らされている、ということ。第三に、私たちにとって、キリストのよみがえりは私たちの祝福に満ちたよみがえりの確かな保証である、ということです」。
 ここでは復活がもたらす益が「すでになされたこと」(過去)、「今なされていること」(現在)、「これからなされること」(未来)であることが明らかにされています。第一の「すでになされたこと」とは、主イエス・キリストの十字架の死と復活による贖いの御業によって、すでに主イエスを信じる者たちが決定的かつ一回的に義と認められているということです。第二の「今なされていること」とは、主イエスによって義と認められた私たちが今すでに主イエス・キリストの獲得して下さった永遠の命の祝福の中に生かされているということです。パウロはこの消息をローマ書6章で語りましたが、そのことが最も具体的な仕方で表されているのが洗礼の礼典であるといえるでしょう(ローマ6:1-11参照)。
 そして第三の「これからなされること」とはキリストの復活がやがての時に迎える私たちの復活の保証であり、初穂であるということです。ここにおいて主イエスのよみがえりは私たちを明日へと生かしめる希望となり、力となります。希望とは何か遠い先の事柄ではなく、むしろ確かな約束に基づいた、日々を生きる力、日常的で具体的な力です。その力に生きることができるところに、復活の信仰の最大の益があるといえるでしょう。終わりにパウロの言葉に耳を傾けておきたいと思います。
 「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3:20-21)。

 



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.