祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解21

「あなたがたはバプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」。(コロサイ2:12)
 
(1)キリストの犠牲の益
今日は前回に引き続いて主イエス・キリストの死と葬り、陰府下りの意義について、第43問と第44問を通して学ぶことにします。第43問では「十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちはさらにどのような益を受けますか」と問われます。もうおなじみになっている「私たちの益」を問う問い方です。すでに繰り返し見てきたように、ハイデルベルクは主要な教理について解説する箇所、とりわけキリストの贖いの御業を解説する箇所においてはくどいほどにこの「益」という表現を用いています。つまりこの教理問答は救いについての教えが、私たちと切り離されて単に教理そのものとして取り扱われることを望んではおらず、絶えずそれが「私にとっての益」、すなわち恵みの果実となることを求めているのです。その意味ではまさしくキリストの贖いの御業こそ、私たちをキリストに結びつける恵みの行為ですから、その箇所において集中的に「私にとっての益」が語られることになるのです。
 さて、その上でここでは大きく二つのことが教えられています。まず第一に「この方の御力によって、私たちの古い自分がこの方と共に十字架につけられ、死んで、葬られる、ということです」。キリストの犠牲の死によって、私もまたそこにおいてキリストと共に死んだのだというのです。ここでの死は裁きに対する死ではなく、罪と律法に対する死であって、冒頭のコロサイ書の御言葉にあるように、洗礼によってキリストと共に葬られたと語ります。さらにガラテヤ書2章19節、20節でも次のように言われます。「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました」。このように、キリストの十字架の死によって、私もまた罪の中にあった古い自分に死んだのである、これが私にとって益であると教えられます。
 第二に「それによって、肉の邪悪な欲望がもはや私たちを支配することなく、かえって私たちは自分自身を感謝のいけにえとして、この方へ献げるようになるのです」。罪と律法に死んだ私たちは、単に「死んだ」だけでなく、キリストと共によみがえらされたことにより、新しい生を生き始めることになります。それは神の子としての歩みであり、新しく生まれたものとしての歩み、聖化の歩みです。この新しくされた者の歩みを鮮やかに示す御言葉は、ローマ書12章1節「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」。また、エペソ書5章1節、2節「ですから、神に愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました」。ここにはハイデルベルクが大きな構造として十戒を第三部の「感謝の生活」においた理由が明らかにされています。つまり、罪と律法に死んだ私たちにとって、もはや律法はなんら私たちを縛る物ではありませんが、しかし新たにキリストと共に生きる者とされた私たちにとって、今度は律法の意義も新たにされ、神に自分自身を感謝のいけにえとして献げて生きるための指針、感謝の指針となっているのです。

(2)キリストの陰府下り
さて、続くキリストの「陰府下り」の箇所はハイデルベルクのみならず、もとの使徒信条の中でも最も問題となったところでした。古代以来、キリストの陰府下りはキリストの死と復活の間の出来事とされてきましたが、実際には使徒信条に最後に加えられたのがこの「陰府に下り」の箇所であり、使徒信条に次いで古い教会の信条と言われる「ニカイア信条」には、「陰府下り」に関する告白は含まれていません。実際にイエスが十字架の死後に死者たちの世界である陰府に下ったとの主張は古くからあり、それを支える御言葉としてペテロの手紙一3章19節「キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです」が引かれてきました。この箇所は大変解釈の困難なものの一つですが、カトリックはこれを根拠に死人の救いの可能性を肯定し、煉獄の教理を作り上げていきました。
 けれどもハイデルベルクを代表とする宗教改革の教理は、これらとは違った理解の道を通ってきたのです。「私の主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みから私を解放して下さった」。つまりここで言う「陰府下り」とは、実際にキリストが陰府の世界に下られたことを指しているのではなく、十字架に代表されるキリストの苦難の御生涯の全体がまさしく陰府下りそのものであったと理解しているのです。ある神学者は第44問は第37問と切り離して理解することが出来ないと指摘していますが、その意味ではキリストの御生涯の全体が苦難であったことと、この陰府下りの教えは一致しています。
 私たちは確かにカトリックの煉獄思想を受け入れませんし、死後のいかなる中間状態も、そこにおける救済の可能性をも受け入れません。しばしば福音派の中にも「よみ」と「ハデス」を分離して、前者を救いについての中間状態のように教える異端的な文書がありますが、それらは非聖書的であると言わなければなりません。しかしかといって、逆の行き過ぎ、つまり地獄なるものを神話とし、天上界と地獄界という古代の二元論的世界観にすべて帰してしまうことをも避けなければなりません。私たちは天の御国をリアルに信じるゆえに、またサタンの支配する地獄の存在をも否定することは出来ません。その両極端を避けてなお、この宗教改革の線に立つことが健全かつ賢明な判断と思われます。
 これまで「使徒信条」からこの陰府下りの部分を削除しようと言う動きは絶えずありました。けれども私たちはこの言葉を告白する時に、キリストの贖いの死が完全であり、その苦しみも完全であったこと、それゆえに死者の中からの復活もまた完全であったことを覚え、このキリストに結ばれていることの幸いを覚えるものでありたいと願います。

 



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