祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解19

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出して下さいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。』と書いてあるからです」(ガラテヤ3:13)。

(1)キリストの受難
今回取り上げる第15主日、第37問から第39問は、使徒信条において「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と告白される部分です。使徒信条の御子についての告白は受肉と誕生に続いて直ちに御子の苦しみへとつながりますが、誕生後の主イエスの生涯については触れていません。そこからこのような書き方について様々な理解が提出されてきました。例えばカルヴァンはジュネーヴ教会信仰問答の第55問で「どうして全生涯の歴史を省いて、降誕から直ちに死に移るのですか」と問い、「ここでは私たちの贖いに固有な、したがってある意味でその本質を含むことしか論じていないからです」と答えています。このカルヴァンの理解に、同信仰問答の講解を著した20世紀最大の神学者カール・バルトは「私たちはここで、カルヴァンに対して少しく批判をしなければなりません。・・・イエスの生涯、その奇跡、その説教、使徒達との関係など、そうしたすべては贖いの本質に属しているのではないでしょうか」と述べています。もとよりカルヴァンが主イエスの地上の生涯を重視していないと言うことではありませんが、それでも誤解を招く表現であると言わざるを得ません。
 この点で、ハイデルベルクの書き方は短い言葉ではありますが、実に行き届いた表現を用いているでしょう。「第37問:『苦しみを受け』という言葉によって、あなたは何を理解しますか。答:キリストがその地上での全生涯、とりわけその終わりにおいて、全人類の罪に対する神の御怒りを体と魂に負われた、ということです」。ここでこの問答はキリストの受難がその終わりによって集約される「全生涯」であること、また神の御怒りを「体と魂」とに負われたものであることを教えます。つまりここでは人として生まれて下さった神の御子イエス・キリストの御生涯がその始まりから終わりに至るまで苦難の人生であったこと、しかもその苦しみは「体と魂」とにおいて担われたことを意味しています。ではなぜ主イエスはそれほどまでに苦しまれなければならなかったのか。答えは続きます。「それは、この方が唯一のいけにえとして、御自身の苦しみによってわたしたちの体と魂とを永遠の刑罰から解放し、わたしたちのために神の恵みと義と永遠の命とを獲得してくださるためでした」。ここに繰り返し語られるように、御子の苦しみは「私たちのためであった」のです。私たちの「体と魂」を贖い出すために、御子は「体と魂」とにおいて神の怒りを負って下さいました。それによって私たちは贖われて今ここにあるのです。

(2)ポンテオ・ピラトの裁きを通して
 続く第38問は、御子の受難がポンテオ・ピラトという地上の裁き主のもとで行われたことの意味を問います。そもそも使徒信条がここで「ポンテオ・ピラトのもとに」と、その固有名詞を挙げることにも理由がありました。使徒信条が成立していった時代にはびこった異端は、キリストの受難の歴史性を否定しようと言うものでしたが、これに対して教会は、その十字架と復活が歴史上の事実であったことを強調するために、あえて歴史上の実在の人物であった総督ピラトの名を挙げたのです。そしてただひとり罪のないお方であったイエス・キリストが、地上の裁判官の手による、しかも違法な手続きのもとで強行された裁判によって死刑を宣告され十字架刑に処せられたことを、ハイデルベルクは神の裁きの行使であったとして、それに服するという仕方で主イエスが私たちの受けるべき裁きを免れさせ、その身代わりとなって下さったことを教えているのです。

(3)呪いの木、十字架
 第39問は一風変わった問い方をしています。「問:その方が『十字架につけられ』たことには、何か別の死に方をする以上の意味があるのですか」。ここではなぜ主イエスの死に方が、他の方法ではなく十字架であったのかが問われます。十字架刑そのものはペルシャ起源で後にローマ帝国に伝えられたと考えられていますが、犯罪人を木に掛けて処刑する磔刑は広く行われていました。しかし主イエスの十字架刑は、その本質において旧約聖書における裁きとの関連で理解されるべきものです。申命記21章には次のように記されます。「もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」(申命21:22-23)。
 このように、十字架とは神の呪いの象徴であり、木に掛けられた主イエスは、神の呪いを受けて下さったのです。ですから「それによって、わたしは、この方がわたしの上にかかっていた呪いを御自身の上に引き受けて下さったことを、確信するのです。なぜなら、十字架の死は神に呪われたものだからです」という答えが記されることになります。
 使徒パウロはガラテヤ書において冒頭の御言葉を記しました。「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出して下さいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです」。本来私たちの上に下るべき神の呪いはすべて主イエスの上に下され、主イエスが呪われた者となってくださった。そこで神の怒りと呪いは満たされ、なだめられ、もはや私たちにそののろいが下ることはない。これが主イエスの受難の意味です。そのことをしっかりと見つめ、贖いの恵みを感謝とともに思い起こし続けたいと願います。 





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