祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解16

 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)。
 
(1)「子とされる」ことの恵み
 今日の第33問、第34問はイエス・キリストが「神の独り子」であり、また「我らの主」であられることの意味を説き明かしている箇所です。今日はその前半の第33問を通して、私たちが「神の子」とされることの恵みを考えたいと思います。まず第33問を読みましょう。「問:私たちも神の子であるのに、なぜこの方は神の『独り子』と呼ばれるのですか。答:なぜなら、キリストだけが永遠から本来の神の御子だからです。私たちはこの方のおかげで、恵みによって神の子とされているのです」。
 これまで学んできたように、この信仰問答は救われるための条件を教えているのではなく、すでに与えられた救いの恵みがどれほど豊かであり、また確かであるかを教えています。その前提があるので、ここでも「私たちも神の子であるのに」と、すでに与えられた神の子としての身分を踏まえての問いが発せられるのです。ですからここではイエスが独り子と呼ばれるのはなぜかと問いつつも、その問いの目的はむしろ私たちが神の子とされているのはなぜか、ということに向けられています。私たちが神の子とされている現実から出発してイエス・キリストを神の独り子と告白する時、翻ってあらためて、自らが神の子とされていることがどんなに驚くべき、恵み深い事実であるかに思い至る。そこにこの問いの目標があるのです。
 では、神の子とされる以前の私たちはどのような者だったでしょうか。パウロはエペソ書の中で次のように言いました。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)。最初の人アダムの堕落以来、神のかたちを失った人間は皆、生まれながらにして神の御前に呪いの子、御怒りを受けるべき子であったのです。その意味では「キリストだけが永遠からの本来の神の御子」です。ところが神はご自身の恵み深い自由なる選びに基づいて、私たちを救いへと選び出し、その救いのご計画を歴史の中で導き、ついには神の独り子イエス・キリストの贖いによってそのご計画を成就して下さいました。「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです」(エペソ1:4-5)とある通りです。このキリストの贖いのゆえに私たちもまたかつては滅びの子であったのが、今や神の子の身分を与えられたのです。聖書はこの消息を明らかにするために、「子とする」ということを「養子縁組をする」という言葉で表現しています。
 主イエス・キリストの贖いを私たちに当てはめ、受け入れさせることで子たる身分を与えて下さるのは聖霊なる神のお働きです。この消息を明らかにするのはローマ書8章です。「神の御霊によって導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子として下さる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:14-17)。

(2)キリストのおかげ
 これらのことをハイデルベルク信仰問答は「この方のおかげで、恵みによって」と表現しました。ここで「この方のおかげ」と訳された言葉は、「この方を通して」あるいは「この方のゆえに」と訳すこともできる言葉です。むしろそのほうが私たちの語感に近い表現かもしれません。「おかげ」というと何かしら日本的・情緒的な響きに聞こえるものです。けれどもやはりここはキリストの「おかげ」と言っておきたい所です。そして「キリストのおかげ」として義認を理解することが、私たちの信仰を生きたものとする上で極めて重要なのだと申し上げておきたいと思います。
 伝統的なプロテスタント義認論は、主イエス・キリストが十字架の贖いによって獲得して下さった「功績」としての義が聖霊によって私たちに転嫁され、それをもって神の法廷において「義と認められた」(義認)と説明します。これはいわば法的な概念を用いての説明といえるでしょう。この背景には当然カトリックの義認論への反論があるのですが、カトリックの場合はキリストの獲得して下さった義が私たち人間に注入されて、私たちが「義となる」(義化)と説明します。これは実体的な変化としての説明です。
 私たちはあくまでも私たちの内なる義によってでなく、キリストの義がもたらされて義とされることを信じているのですから先の説明で正しいのですが、しかしこの場合ともするとキリストと私たちとの関係は法的にのみ理解されて、そこにあるキリストと私たちとの人格的な関係は見過ごされてしまいがちです。大切なのはキリストの人格と御業を決して切り離してはならないということであり、その点で、キリストの獲得して下さった義の功績は、まさしくキリストが私たちを愛するがゆえに贖いを成し遂げて下さったおかげ、すなわちキリストの「恩義」であると受け止めることが必要なのです。
 この点を指摘した言葉を引用して終わりたいと思います。「キリストへの愛の負い目ということ、これではキリストに申し訳ない、その愛にこたえたいという切なる思いが、絶望している罪人を立ち上がらせるのである。まさしくキリストの恩義という人格関係こそが最も重要なのである。贈り物には、それを贈ってくれた方の気持ちと人格が込められている。そのことを知ることが贈られた者の生き方をも変える。贈り物と贈り手とは切り離し得ない、義認の効力とはまさにそのような人格的な愛の力なのである」(芳賀力『物語る教会の神学』教文館, 1997 p.199)。



日本同盟基督教団 徳丸町キリスト教会
〒175−0083
東京都板橋区徳丸6−24−10
TEL 03−3935−3405
FAX 03−3935−3445

メールでのお問い合わせ
管理人


Copyritht ©The Evangelical Alliance Mission Tokumarucho Christ Church All Rights Reserved.