祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解15

 「あなたがたの場合は、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについて、あながたがたを教えるように、−その教えは真理であって偽りではありません。−また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです」(Iヨハネ2:27)。

(1)「キリスト者」ということ
 今日は第12主日の後半、第32問について学びます。ここでは油注がれたメシヤなるイエス・キリストと、私たちとの関係について教えられています。第32問。「しかし、なぜあなたが『キリスト』者と呼ばれるのですか」。私たちは自らを指して「クリスチャン」「キリスト者」と呼びますが、その意味はどこにあるのかと問われるのです。そもそも「クリスチャン」という呼び名はどこから来たのでしょうか。使徒の働き11章25、26節に次のようにあります。「バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大勢の人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった」。ここに歴史上初めて「キリスト者」、「クリスチャン」(原語では「クリスティアヌス」)という呼び名が登場します。「クリスティヌス」とは「キリスト派の者」、「キリストに属する者」という意味ですが、先ほどの使徒の11章によれば、これは彼らが自分自身で名乗った名称ではなく、周りの人々がイエス・キリストを信じる人々を指して付けた呼び名であり、そこには彼らの独自の在り方に対する冷ややかな感情が込められていました。同じ使徒26章では、パウロがアグリッパ王のもとで弁明した時の様子が描かれていますが、パウロの言葉を聞いたアグリッパが「あなたは、わずかな言葉で私をキリスト者にしようとしている」と語ったと記しています。
 しかしこの当時からキリスト者たちは文字通り自らがキリスト者と呼ばれることをよしとして、それ以降、「キリスト者」という呼び名が定着して行きました。そこには「私は福音を恥としない」(ローマ1:16)という彼らの気概が込められていたのでした。 しかし今日の問いではさらに進んで、私たちの贖いを成し遂げるために預言者、祭司、王としての職務を担って下さった主イエス・キリストとの結びつきにおいて私たちの在り方が語られるのです。

(2)キリストにあずかる者
第32問の答えを見てみましょう。「なぜなら、わたしは信仰によってキリストの一部となり、その油注ぎにあずかっているからです」。パウロはIコリント12章で「キリストのからだ」としての教会論を展開していますが、そこで次のように語っています。「私たちはみな、ユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」(Iコリント12:13)、「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」(同12:27)。ここには私たちがキリストの一部になるのは、キリストの身体である教会を通してであることが明らかにされます。またハイデルベルクの「キリストの油注ぎにあずかる」という表現の背後には、メシヤの油注ぎがその務めへの任職であったのと同様に、私たちもまたキリストのからだの一部に加えられることを通して、このキリストの職務にも与る者とされているという主張が込められているのです。つまりキリスト者はキリストの一部とされ、キリストの教会に加えられ、キリストの油注ぎに与ることによって、キリストの職務にも与ることになると言うことです。ここではハイデルベルクが一貫して取り上げる「キリストのものとされる」「キリストに与る」というモティーフが、キリストの職務との関係においても繰り返されているのです。

(3)私たちの職務
 ですから、続く部分は次のように始まるのです。「それは、わたしもまた、この方の御名を告白し、生きた感謝の捧げ物として自らをこの方に献げ、この世においては自由な良心をもって罪や悪魔と戦い、ついには全被造物をこの方と共に永遠に支配するためです」。ここには明らかに前回学んだキリストの預言者、祭司、王としての三重の職務に対応する、私たちの職務が語られています。その第一は預言者に応答して御名を告白すること、第二は祭司のもとで生きた感謝の捧げ物としての自らを献げること、そして第三は王の兵士として悪魔と戦い、全被造物を治めることです。
 キリストの御名を告白すること。それは私たちの存在に関わることです。恐れることなく、恥じることなく、世にあってキリストを告白することなしにキリストに与ることはできません。しかし同時にその告白は私自身の中から生み出されてくるものでもないのです。聖書は言います。「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」(Iコリント12:3)。キリストへの告白を私たちにさせてくださるのは私たちに注がれた聖霊なる神のお働きによっているのです。このことは自らをキリストに献げることにおいても、キリストと共に全被造物を治めることにおいても同様です。私たちがキリストにお献げできるもので、もともと私たちの手の中にあったものは何一つありません。私たちの礼拝も、奉仕も、献金も、伝道も、証しも、祈りも、この世の務めも、時間も、経済も、この身体すらも一切は父なる神が御子イエス・キリストの故に聖霊によって私たちに賜ったものであり、私たちはそれをもって主に献げ、主に仕えるのです。また罪と悪魔との戦いは極めて霊的な戦いであり、御霊の武具による武装なしには戦い得ないものであると聖書は教え(エペソ6:10-18)、しかもその勝利と被造物の支配とは、主とともに与るものであるとも教えられています。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」(黙示録3:21)。
 以上のように、私たちキリスト者がこの地上において果たす務めは、いずれも油注がれたメシヤなるキリストの三重職から来るものであり、このキリストにあって御霊の油注ぎを受けた私たちが担うようにと託されたものです。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)との主の言葉に信頼し、聖霊の力によってこの務めを果たすお互いでありたいと願います。



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