祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解13

 「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ1:20-21)。

(1)「イエス」という名
第11主日(第29問)から第19主日(第52問)までは、「父なる神」に続いて「子なる神」すなわちイエス・キリストについての教えが語られる部分です。ここで私たちが学ぶのは、私たちが単に「神の子」としての存在がどのようなものであるかを知るということではありません。むしろ子なる神を「救い主」として知るということです。そうであるならば、子なる神を知るとは単に神存在に対する知識と言うこと以上に、私たち自身の救いについて必要な知識と言うことになるでしょう。この点はハイデルベルクの問い方に現れています。「なぜ神の御子は『イエス』すなわち『救済者』と呼ばれるのですか」。
 まず「イエス」という名前に注目しましょう。「イエス」という名前の由来は、旧約聖書のヘブライ語「イェホシュア」または「ヨシュア」という言葉で、モーセの後継者ヨシュア等と同じ名前ということになります。この名前は「ヤハウェは救い」という意味ですが、この「ヤハウェ」というのは、出エジプトにおいて神様が「わたしは『わたしはある』という者である」(出エ3:14)と語られた御自身の名で、聖書の神様だけが名乗られる名前です。この神様は救いである、というのが「ヨシュア」の名の意味であり、「イエス」というのはこのヘブライ名のギリシャ語読みなのです。
 ここには神の子なるイエスがどのような存在であられるかがすでに明らかにされていると言えるでしょう。「ヤハウェなる神は救いである」という名を持つ御方、この方こそが「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」(マタイ1:21)なのだということです。ですからハイデルベルクも次のように答えます。「それは、この方がわたしたちをわたしたちの罪から救ってくださるからであり、唯一の救いをほかの誰かに求めたり、ましてや見出すことなどできないからです」。「神は救いである」という名を持つ御方が、その名の通り、私たちを私たちの罪から救うためにこの世に来てくださり、十字架と復活の御業を通して贖いを成し遂げてくださった。それが私たちのイエス・キリストに対する信仰の中心であります。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられてはいないからです」(使徒4:12)とペテロが語ったとおりです。

(2)「イエス」にある救い
 ハイデルベルクは続く第30問でイエス・キリスト以外に救いのないことを更に強調して教えています。「それでは、自分の幸福や救いを聖人や自分自身やほかのどこかに求めている人々は、唯一の救済者イエスを信じていると言えますか」。ここで言われているのは当時の時代にあった「聖人崇拝」、「自力救済主義」を念頭に置いてのことです。聖人崇拝とはローマ・カトリックで大きな功績を積んだ人物を聖人と呼んで崇め、またその聖人の昇天した「聖人の日」として記念し、その遺骨や持ち物を「聖遺物」として崇敬することです。当時のカトリック教会では、イエスの母マリヤを始め、教会で多くの功徳を積んだ聖人に祈ることで、その聖人たちの功徳に助けられて自分自身の救いを得ると言うことが行われていました。また救いは神の恩恵だけでなく、人間の側の善行も必要であるとするペラギウス主義的・自力救済的な考えがその背後には控えていました。ですからそのような在り方をこの信仰問答は厳しく退けているのです。「いいえ。たとえ彼らがこの方を誇っていたとしても、その行いにおいて、彼らは唯一の救済者また救い主であられるイエスを否定しているのです。なぜなら、イエスが完全な救い主ではないとするか、そうでなければ、この救い主を真実な信仰をもって受け入れ、自分の救いに必要なことすべてを、この方のうちに持たねばならないか、どちらかだからです」。
 ハイデルベルクが念頭に置いている人々も確かに「イエス」の名を証しし、それを崇めていました。しかしそこに人間の側の功績や善行を一粒でも忍び込ませようとするならば、それは救い主イエスを否定していると言うのです。救いは神の恵みの業である。イエス・キリストはそのことを御自身の名をもって証しし、その身をもって証しして下さった体現者であられるのです。

(3)イエス・キリストを告白する使命
 今日、このイエス・キリストに対する告白は脅かされ、揺さぶられています。イエス・キリストは単なる人間、革命家、霊能者の位置におとしめられ、イエス・キリストにある救いは、他の異教宗教が与える救いと同列に扱われ、十字架の福音は人生成功の哲学にすり替えられてしまっています。また他方、教会がキリストへの告白を棄てて異教の神の膝をかがめるというかつての忌まわしい罪の歴史が繰り返されようともしているのです。かつて日本の教会は天皇を神として崇めることを「宗教にあらず」として認め、神社に参拝し、礼拝において御真影を掲げ、宮城遙拝をおこない、さらには隣国にまで出かけていってかの地の教会にそれを強制するということまでしました。韓国の教会が、そのことが十戒の第一戒に背く罪であるとしてこれを拒もうと命がけの抵抗をしたにもかかわらず、日本の教会はそのことの罪に気付かず、むしろその罪に積極的に荷担していったのです。これは日本の教会が今も担っている負債ですが、それは再び繰り返されないとも限らないほどに今の時代、私たちの周りに忍び寄っています。「イエス・キリスト以外に救いはない」、「イエス・キリストこそが主であられる」。この信仰の告白を高く掲げることが今日の教会の戦い方です。私たちは絶えず目覚めて、この福音の告白に生きるものでありたいと願います。



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