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ハイデルベルク信仰問答講解12

 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。

(1)摂理の御業
 第27問では具体的に摂理について「何を理解しているか」と問われますが、まず注目すべきは、摂理が「全能かつ現実の神の力」と言われる点です。他の訳では「全能の現臨の神の力」、「神の全能なる、今働く力」、「全能の神の絶えず働く力」となっていますが、大切なのは、全能の神の力が今この時も絶えず働いているという点です。私たちは神の摂理という時、すべてがあらかじめ決められたプログラムであり、その既定のレールの上を走らされる人生を考えがちですが、神の摂理の御業は「今働く力」であると言われるのです。もちろん地上で起こる全てのことが神様の御計画の中にあることは確かなことですが、その一方で私たちの父なる神は今、この時も私たちと交わりを持ちたもう「生ける神・契約の神」であられます。そしてその力強い御手をもってこの世界を保ち続け、この世界がやがて終わりの日を迎える時に、新しい天と地としてもたらされることに向けてこれを治め続けていて下さるのです。それゆえに、この世界で起きる全てのこと、大きなことも小さなことも、甚大なことも些細なことも、幸いなことも悲しむべきことも、すべてはこの神様の御手の中にあることなのであって、第27問はこのことを慰め豊かな言葉で言い表しているのです。
次に心を留めたいのは、創造の神、全能の神の摂理によって私たちの身に起こるすべてのことを「父らしい御手によって私たちにもたらされる」と表現する点です。これは他の訳では「慈しみ深い父としての神の御手」とあるように、まさしく私たちを愛してやまない主イエス・キリストの父なる神の御手であります。この父なる神が、私たちに喜びを与え、楽しみを与えるばかりか、悲しみや試練さえ与えることによって私たちの人生を深みのある色に彩って下さるのです。
以上のようなハイデルベルクの摂理論と同様の響きを持つ信仰告白文書に「ベルギー信仰告白」(1561年)があります。その第13条には次のように記されます。「我らはこの善き神がすべてのものを創造された後、気まぐれに彼らを棄てることはなく、聖なる御旨によって彼らを導き、支配することを信じる。・・・また神が人の思いを越えたことをされることについて、我らはそれを我らの能力が許す以上に好奇心をもって探求することを欲しない。我らはこれらの限度を超えないで、神が御言葉によって現すことだけを知って満足する。・・・この教えは我らにいい知れない慰めをもたらす。なぜなら我らはそれによっていかなるものも気まぐれに起こるはずはなく、我らの善き天の父の命令によって我らに起こると教えられるからである。神は父としての配慮をもって我らに心を留め、彼に属する全ての被造物を支配し、そのため我らの頭の髪一本も、小鳥でさえも、我らの父の意志がなければ地に落ちることはできないのである。我らは神のうちに休らう。神が悪魔とすべての我らの敵を制していることを我らは知っているので、神の許しと意志がなければわれらを害することは出来ないことを知っているからである」。

(2)摂理信仰の益
 第28問は、私たちがこの神様の創造と摂理の御業を知ることによって受ける益について教えています。「どのような益を受けるか」という問いは、カルヴァンを始め、改革派のカテキズムの特色ある問いであると言えます。一般的に改革派の教理は体系的・論理的で冷たい印象を与えると言われますが、実際の所は私たちの信仰の益ということを考えた極めて実践的・牧会的な響きを持つ言葉であると言え、この問いもその一つの典型と言えるものです。私たちにとっての益を問うと言うことの中には、二つの意味が込められていると言えるでしょう。まず第一には、摂理についての信仰は「私たちにとって」という認識がなければそれこそ単なる運命論、宿命論におわってしまうということです。ここでは他者の運命を云々することは許されていません。神の御前における私、聖霊の恵みによって御子イエス・キリストに結び合わされ、創造者なる全能の神をこの御子の贖いの故に「私の父よ」と呼ぶことの許されているこの「私」から発せられる時に初めて、この問いにおいて私たちは摂理の持つ慰めを受け取ることが出来るのです。第二のことは、「どのような益を受けますか」という問いの前提として、すでに神の摂理の業は私たちにとって益であると言う信仰が横たわっているという点です。これもまた全能の神が「父なる神」である、という信仰によって支えられている確信です。

(3)摂理信仰における「今」と「これから」 
摂理信仰の益についてハイデルベルクは「逆境においては忍耐強く、順境においては感謝する」と語り、また「将来については私たちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物もこの方の愛から私たちを引き離すことは出来ないと確信できるようになる、ということです」と語ります。ここには摂理信仰がもたらす「今」と「これから」に対する信仰の構えが教えられています。摂理の信仰は私たちに未来を予測させるものではありません。むしろ摂理の信仰は「今」を生きることに対する励ましであると言えるでしょう。忍耐と感謝という人生の構え。それは人生の全てが神から来ることを認める時に与えられる構え、与えられたことを受けとめ、引き受けて生きることの出来る構えであると言えるでしょう。
 では将来に対する構えはどのようなものか。私たちは自分の前に隠されている事柄を早く知りたいと思います。それらがわかればもっと神様に信頼できるのではないかとも思います。けれども聖書の信仰の真髄は、この一つのことを確信しておれば良いというのです。それは「この方の愛から私たちを引き離すことは出来ない」というローマ書8章の確信なのです。いかなるものをもってしても主イエス・キリストにある神の愛から私たちを引き離すことは出来ない。その典型を私たちは旧約の義人ヨブに見ることが出来るでしょう。
 結局の所、創造と摂理の教えは、私たちを御子イエス・キリストにおいて示された父なる神の御愛へと向けさせるものであり、私たちがその御愛を本当に確かなものとして受け取るのは、聖霊なる神によるキリストとの結合によるということへと繋がっているのです。その時、私たちはこの苦難の生のただ中にあってなお、生きるにも、死ぬにもただ一つの慰めを得ることが出来るのです。父なる神の摂理の目的、それは私たちがキリストのものとされていくこと、キリストと結び合わされていくということ、この一点に尽きるものなのです。




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