祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解11

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていて下さるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタイ6:26)。

(1)父なる神を信ず
ハイデルベルク信仰問答は父なる神を告白するにあたって、「天と地とその中にあるすべてのものを無から創造され、それらを永遠の熟慮と摂理とによって今も保ち支配しておられる、わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父」という視点から教えています。 「創造と摂理」の教えは私たちの信仰の中核を為すものですが、注意したいのはハイデルベルクは創造と摂理を信じるというのではなく、この創造と摂理のお方が「わたしたちの主イエス・キリストの永遠の御父」であり、「御子キリストのゆえに、わたしの神またわたしの父であられる」と言い表している点です。私たちが創造と摂理の神を「父なる神」と呼ぶ。ここにはキリスト教信仰の大きな特色があると言えます。
 全知全能の創造者なるお方を、被造物に過ぎない私たちが「父」と呼び得るのはなぜでしょうか。前回の三位一体論で学んだように、本来「父なる神」という呼び名は第一義的には御子イエス・キリストからの呼び名です。父と子、と言う関係はこの両者においてのみ成り立つはずのものでした。教会は三位一体の内なる業を「御子は御父から永遠に生まれ、御霊は永遠に御父と御子とから出、御父は永遠に御子を生み、御霊を発出する」と言い表してきました。ところが、私たちが主イエス・キリストの贖いによって救われた時、私たちもまたこの御子にあってイエス・キリストの父なる神を「わたしの神、わたしの父」と呼ぶことのできる世界が開かれたのです。このことをパウロはローマ書で、またガラテヤ書で次のように語りました。
 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:14-17)。
「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です」(ガラテヤ4:6-7)。
 つまり御子イエス・キリストの救いに与る時に私たちのうちに聖霊が与えられ、この聖霊のお働きによって私たちは主イエス・キリストと一つに結び合わされ、それによって神の子としての身分を与えられ、主イエス・キリストの父なる神を「わたしの父」と呼ぶことができるようになったのです。従ってここでの「御子キリストのゆえに」という一句がどれほど思い意味を持つかを十分に思い巡らすことが大切です。私たちが「父なる神よ」と祈る時、そこには主イエス・キリストによって贖われ、聖霊によってキリストのものとされ、それによって神の子とされたという三位一体の神の御業がすべて込められていることを知るのです。このように見てくると、ここで語られていることは、第一問以来何度も繰り返されてきたハイデルベルクの中心的主題、すなわち聖霊によって「キリストのものとされること」、あるいは「キリストに与ること」、「キリストと結び合わされること」との関連の中にあることに気付くでしょう。
 
(2)創造と摂理
このように父なる神をまことに「わたしの神またわたしの父」と信じる時、創造と摂理の信仰もまた大変生き生きとした告白として言い表されるようになります。続きを読みましょう。「わたしはこの方によりたのんでいますので、この方が体と魂に必要なものすべてをわたしに備えて下さること、また、たとえこの涙の谷間へ(ラテン語テクストでは「悩み多い生涯」)いかなる災いを下されたとしても、それらをわたしのために益として下さることを、信じて疑わないのです。なぜならこの方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです」。
ある神学者はこのテクストについて「あれこれ説明せず、ただ本文を読んでじっとその内容を反芻すればよい」と記しています。確かにこの第26問から第28問は、ハイデルベルク信仰問答の中で、ひいては数多くの信仰問答文書の中で最も美しい文章の一つと言われるような箇所です。創造と摂理の教えの中で、ここではとりわけ摂理の信仰について多くの言葉が費やされています。多くの場合、摂理の信仰は「運命論」や「宿命論」のように受けとめられ、私たちにはどうすることもできない神様の一方的な意志、計画として私たちの上に振るわれる力として理解されがちです。確かに私たちの人生に突然に降りかかる出来事は、時として暴力的な力として感じられるものです。
 しかし摂理の信仰の運命論や宿命論との根本的で決定的な違いは、そこに人格的な存在との人格的な関係があるということでしょう。もし私たちが「神」を単に一般的な神概念として捕らえるならば、そこでなされる一切の事柄も運命論として機械的に理解される他ありません。しかし私たちは思想としての「神一般」を考えているのではないのです。そうではなく、そこにおられるのは「主イエス・キリストの父」であり、「わたしの神またわたしの父」でおられる方なのです。このことをハイデルベルクは最後の一文で表現しています。「なぜならこの方は、全能の神としてそのことがおできになるばかりか、真実な父としてそれを望んでもおられるからです」。つまり「全能の神」とはただそれだけを取り出していては私たちと遠く離れたお方としてしか受け取れ得ないのですが、これがひとたび御子イエス・キリストのゆえに私たちの父となってくださったならば、この父なる神の全能の御業は私たちに対しての「愛」の御業となり、必ずや私たちに対して「益」となる御業となるに違いないと信じることができるでしょう。「わたしはこの方により頼んでいる」(第21問参照)という前提のもとで、私たちは父なる神の創造と摂理の御業を信じることができるのです。ハイデルベルクが好んで引用する御言葉を読んで終わります。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。

 



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