祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解9

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。

(1)救われるために
今日から学ぶ「まことの信仰・使徒信条」と小見出しの付けられた箇所は、ハイデルベルク信仰問答の第二部「人間の救いについて」の中心的な部分です。ハイデルベルク信仰問答はここまでで人間の罪を語り、仲保者キリストを語るにあたって最初の人アダムを「第一のアダム」、イエス・キリストを「第二のアダム」とするローマ書の教えに従ってきましたが、人間の救いにおいても同様な扱いがなされます。「それでは、アダムを通して、すべての人が堕落したのと同様に、キリストを通してすべての人が救われるのですか」(問20)。ここでは一人の人アダムによって人間全体に罪が入ったのと同様に、一人の人イエス・キリストによって救いが与えられていることが教えられています。人間の罪についても、罪からの救いについても、いずれにしても一人の人によって、というのが共通点です。
 しかしこの「アダムと私たち」と「イエス・キリストと私たち」という二つの関係はすべてが同じではありません。「いいえ、まことの信仰によってこの方と結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れる人だけが救われるのです」(問20答)とあるように、救いに必要なのは「まことの信仰」であると言われます。すなわち最初の人アダムとの関係は生まれながらによる罪の連鎖であって、そこには何の限定もないのですが、イエス・キリストとの関係は信仰によって結び合わされ、受け入れられるものだと教えられているのです。
 ここで教えられていることは「選びの教理」です。聖書に拠れば、すべての罪人が救われるのではなくただ神の恵みによって選ばれた者が救いに入れられるのですが、ハイデルベルクはそこを「選びによって」と言わず「まことの信仰によって」と言います。つまり神の側からの「恵みの選び」は、私たちの側の「まことの信仰」として確かにされるということです。私たちが神の恵みによって選ばれているということは、すなわちまことの信仰によって仲保者イエス・キリストと結び合わされ、そのすべての恵みを受け入れているということなのです。

(2)まことの信仰
 では私たちをイエス・キリストに結び合わせる「まことの信仰」とはどのようなものでしょうか。「それは、神が御言葉においてわたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしのうちに起こしてくださる、心からの信頼のことでもあります。それによって、他の人々のみならずこのわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられるのです。それは全く恵みにより、ただキリストの功績によるものです」(問21答)。
 ここで重要な信仰の定義がなされます。これは宗教改革の神学が確信した信仰と救いについての教理がすべて収められている大変優れた定義であると言えます。ハイデルベルクは信仰とは御言葉に対する「確かな認識」であり、福音を通して聖霊が起こして下さる「心からの信頼」であるというのです。ここには御言葉と御霊、認識と信頼の分かちがたい関係と、その中での聖霊の根源的かつ決定的なお働きが教えられています。ここで信仰を敢えて「まことの信仰」と呼ぶのも宗教改革の重要な概念です。宗教改革とはいわば「まことの信仰」、「まことの教会」を打ち立てるための戦いであったのであり、そこで鍵となるのは御言葉と御霊による信仰と、そしてこの信仰によって与えられる救いが「全く恵みにより、ただキリストの功績による」ということの主張だったのです。
 先ほどこの問21を「信仰の定義」と呼びましたが、むしろその呼び方は相応しくないかも知れません。信仰とは「定義」されるような固定的なものではなく、聖霊によって生きて働くものだからです。その意味では、ここで語られているのは、聖霊なる神が私たちのうちにどのように信仰を起こし、それによって救いを与えて下さるかの道筋であると言ってよいでしょう。そのようにして読み直すならば、改めて重要な意味を帯びてくるのが「聖霊」と「わたし」ということです。まず第一にまことの信仰とは聖霊によって与えられるものである、ということです。問20では神の恵みの選びが、私たちの側では信仰によって確かにされると言いましたが、その場合の信仰もまた何か私たちのうちから自然にわき上がってくるものではなく、それもまた聖霊によって起こされるものだというのです。 また問21で繰り返し「わたしが確信する」「わたしのうちに起こしてくださる」「このわたしにも、罪の赦しと永遠の義と救いとが神から与えられる」として、「わたし」が強調される点も重要です。結局、救いとは客観的な事柄として語っていても意味のないことであって、それが「わたし」に当てはめられてこそ、はじめてまことにわたしの救いが成し遂げられるのであり、それこそが聖霊がまことの信仰によって私たちに与えて下さるものです。この聖霊が「わたし」をキリストに結び合わせ、「わたし」をそのすべての恵みに与らせて下さることこそが、実はハイデルベルクの語る「ただ一つの慰め」なのです。
更に加えて「福音を通して聖霊が」と語られる点に注目しておきたいと思います。聖霊が信仰を起こして下さるのは「福音を通して」である。この場合の福音とは、その前に出てくる「御言葉において私たちに啓示されたことすべて」を受けていると言って良いと思いますが、ハイデルベルクが「福音」と言う時に念頭に置いているのは紛れもなく「福音の説教」のことです。神の御言葉が礼拝において、説教者を通して、福音の説教という仕方で説き明かされる時、聖霊はその聞き手の中にいる「わたし」のうちに信仰を起こして下さるのです。教会における礼拝の中心性、礼拝における説教の中心性を改めて覚えるものです。

(3)信仰の要約−使徒信条
このような信仰の定義を受けて、いよいよ「キリスト者が信ずべきこと」(問22)としての使徒信条の講解が始まります。そこには「福音においてわたしたちに約束されていることすべて」が要約されているのです。

 



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