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ハイデルベルク信仰問答講解8

 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」(Iペテロ3:18)。

(1)まことの人にしてまことの神
 今日学ぶ問16から問19は、前の問15で私たちが求めるべき仲保者、救い主が「ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神でもあられるお方です」と教えられたのを受けて、救い主の「人性」と「神性」の必要性を教えているところです。 まずこの救い主、仲保者がただしい人間でなければならない理由が説明されます。「なぜなら、神の義は、罪を犯した人間自身がその罪を償うことを求めていますが、自ら罪人であるような人が、他の人の償いをすることなどできないからです」(問16の答)。ここで問題とされているのは第一に、仲保者がまことの人でありまことの神であることは私たち人間の側からの必要によるのでなく、神の義の要求に基づいているということです。神がご自身の義を全うし、かつ罪人を救う御自身の憐れみを全うするために、このような仲保者をお立てになると言うことなのです。
 第二に、ここで引照聖句にローマ書5章12、15節が引かれているように、問題は最初の一人の人の罪であり、この最初の人の罪によって全人類に及んでいる罪を解決することが必要なのです。しかし私たち人間にはその罪の解決をすることができない。罪人である私たちは罪人のために償いをすることができないだけでなく、自分自身の償いさえできない。ですからそれができる一人の人の償いによって罪の状態から回復されることが神の御心であり要求であるというのです。そして本来ならば人間が償うべき罪を、それをなし得ないためにこの一人の正しい人が私たちの身代わりとなって罪を償って下さった。それによって律法の要求は満たされたのです。ローマ書3章21節から26節にある通りです。
ではなぜその方が同時にまことの神でなければならないのかについては「その方が、御自身の神性の力によって神の怒りの重荷をその人間性において耐え忍び、私たちのために義と命とを獲得し、それらを再び私たちに与えて下さるためです」(問17の答)と教えられます。私たちの罪のために下される神の怒りの重荷を耐え忍び、それによって私たちのために義と命とを獲得して、私たちが再びその祝福に与るようにさせて下さるのは神のみの為せる業です。神的な力を帯びた人というのではなく、まさしく神であるということなしには神の怒りを耐え忍び、義と命を獲得することはあり得ないのです。
 このように神の前にまことの人としてその罪の罰に服することによって律法の呪いを引き受け、かつ律法の要求を全うすることによって義と命を獲得して下さった。それこそが仲保者のなしたもうた御業であり、それはまことの神であり人である仲保者によってのみ可能なことでした。

(2)仲保者イエス・キリスト
このようにしてハイデルベルクはそのようなまことの神にしてまことの人でありたもう仲保者とはいかなるお方であるのか問うて来たのですが、ここに来てその答えがはっきりと語られることになります。「問18:それでは、まことの神であると同時にまことのただしい人間でもある仲保者とはいったいどなたですか。答:私たちの主イエス・キリストです。この方は、完全な贖いと義のために、私たちに与えられているお方なのです」。ここではじめて仲保者が主イエス・キリストであられることが語られるのですが、もちろん内容的には既に主イエスのことは語られてきたのです。むしろ主イエス・キリストが御自身の贖いの御業をもってお語り下さらなければ、私たちはこのような仲保者を求めることすらあり得なかったのです。そういう意味ではハイデルベルクの仲保者論は人間のうちにある「救い主」一般の観念から出発して主イエス・キリストに至るという道筋を取っているのではなく、最初から一貫してただ一人の仲保者なるイエス・キリストのことを語っていたのです。
 これまで学んできたようにキリストは律法の呪いに服し、義の要求を全うすることによって私たちの完全な贖いと義となって下さいました。「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」(Iコリント1:30)とある通りです。この「私たちの」主イエス・キリストが贖いによって獲得して下さった義と聖が今や「私たちのため」に与えられている。キリストの成し遂げられた客観的な御業が、「私たちのため」という主観において捕らえられる。それは聖霊なる神の御業です。御霊が私たちのうちにこのキリストの贖いの業を当てはめて下さり、それを信じる信仰を起こして下さり、そしてまさにこの贖い主キリストに与らせ、そのようにしてキリストのものとして下さることを教える(問1)。これがこの信仰問答の最も太い線なのです。

(3)福音の全体
このように仲保者キリストによる贖いを私たちに当てはめて下さるのは聖霊なる神のお働きですが、そのために用いられるものが「聖なる福音」(問19)であると教えられます。主イエス・キリストが私たちの救い主であることを私たちが何によって知るのか、という問いに対して「福音によって」と答えられるのです。
 では聖なる福音とは何か。これについてのハイデルベルクの説き起こし方は重要です。「それを神は自ら、まず楽園で啓示し、その後、聖なる族長たちや預言者たちを通して宣べ伝え、律法による犠牲や他の儀式によって象り、御自身の愛する御子によってついに成就なさいました」。ここで語られているのはいわば旧新約聖書の要約です。私たちは福音というとすぐに主イエス・キリストの御生涯とその御業の知らせを思いますが、ハイデルベルクはそれをさかのぼって旧約から、しかも最初の人間に対する語りかけ(創世記3:15)から福音を語り出すのです。要するにイスラエルの歴史を通し、旧新約聖書を貫いて神は福音を語り続けていて下さる。神の人間への救いの意志とそのご計画、そしてその主イエス・キリストによる成就の全体がここで言う「聖なる福音」の中身です。言い換えればそれは神の人間に対する約束、契約の成就の歴史です。この旧新約を貫く聖なる福音の全体が、今も私たちに「福音の説教」を通して語りかけられ、私たちはこの福音の説教を通してまことの救い主、契約の仲保者である主イエス・キリストに出会うことができるのです。

 



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