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ハイデルベルク信仰問答講解7

 「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです」(Iテモテ2:5-6)。
 
(1)神の義の要求
今晩から「第二部 人間の救いについて」に入ります。第二部は第五主日(問12)から第三一主日(問85)までの部分で、私たちの救いについての教理が教えられている重要な箇所です。その第二部の初めに置かれているのが「ただ一人の仲保者」という小見出しで括られる問12から問19で、この部分を二主日にわたって学ぶことになっています。これまでのところで人間が罪と悲惨の中にあること、人間に対して神は御自身の義に基づき永遠の刑罰を下されることを見ました。そこで問12では「この刑罰を逃れ再び恵みにあずかるにはどうすればよいのですか」と問われることになります。すでに問8で聖霊による再生が語られましたが、ここではそれが正面から問われるのです。これに対する答えでまず明確にされることは「神は御自身の義が満たされることを望んでおられる」ということです。神は憐れみの御方であると同時に、義であり聖であられるので、御自身の義を曲げることも罪を見過ごすことも決してなさいません。そうではなくどこまでも御自身の義の要求を貫かれるのです。そのために私たちは「自分自身によってか他のものによって、完全な償いをしなければならない」のです。
 この「償い」の思想が正しく取り戻されたのは宗教改革の時代でした。中世の時代には「償い」が「刑罰」を逃れるための手段とされ、刑罰を回避するために人が支払うべき賠償金がどんどんと跳ね上がって行ったのです。ルターの時代の免償制度の背景にあったのもこのような事情です。しかしハイデルベルクは神が御自身の義の貫徹を要求され、その要求が通る以外に救いのないことを明言します。つまり罰の代わりの償いではなく罰に完全に服することによる償いが求められているのです。しかしこの時「自分自身によってか他のものによって」(傍点筆者)と語られる点が重要です。本来ならばこの償いは罪を犯した人間に要求されるべきことですが、神はここで「他のもの」の償いの可能性を示唆しておられます。つまりここですでに仲保者キリストへと向かう伏線が張られているのです。神がどこまでも義を貫き、その刑罰に服することによる償いを要求されるのは、実に神御自身が御子イエス・キリストにおいて自らの要求に応じようとしておられるからなのです。

(2)償いの出来ない人間
神への償いを「自分自身か他のものによって」しなければならないと信仰問答は教えるのですが、まず自分自身の可能性が否定され(問13)、続いて他の単なる被造物の可能性も否定されます。神は人間を御自身のかたちに創造され、御自身との契約の関係に置いて下さったので、その立場への回復は他の被造物によってはなし得ないことです。ここには創造の冠たる人間の光栄ある地位が反映していると言えるでしょう。本来人間が与えられていた神のかたちがどれほどの尊厳に満ちたものであったかが逆説的に示され、その神のかたちを損なってしまったこと(毀損)が神の前にあるはずの人間をどのような所におとしめてしまったかが明らかにされているのです。またある注解者はこの「被造物」の中には地上のみならず天上の被造物すなわち天使も含まれていると指摘します。ヘブル書の1〜2章は御子イエス・キリストと御使いを比較しながら、御使いは御子にまさるものではなく、むしろ御子から遣わされて人間に仕える存在であると語られています(ヘブル1:4-2:18)。そこから天使すらも私たちの償いとはならないことが教えられていると言っています。つまり天上にも地上にも、神によって造られたものの中で私たちの罪を償うことの出来る存在は一つだにないことが明らかにされるのです。

(3)神であり、人であられる仲保者
そこで「それでは、わたしたちはどのような仲保者また救い主を求めるべきなのですか」との問いが発せられます。私自身でなく他の被造物でもなく、ただ一人私たちの罪を償うことのできる「仲保者」が指し示されるのです。「仲保者」とは、神と人との間に結ばれた「契約の仲保者」であり、この契約が全うされることの「保証人」を意味しますが、この仲保者は「まことの、ただしい人間であると同時に、あらゆる被造物にまさって力ある方、すなわち、まことの神でもあられるお方」とされます。この「まことの神にしてまことの人」の教理は「キリストの二性一人格」と呼ばれ、三位一体論と並んでキリスト教の中心教理の一つですが、それについては次回にもう少し詳しく取り上げることとします。
 とにかく今日の箇所で憶えておくべき点は、主イエス・キリストが神と私たちとの間の仲保者として、神の義に基づく罪への刑罰をすべてその身に引き受けて下さり、それによって神への償いとなって下さったということです。このことをパウロはローマ書で次のように語りました。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(ローマ8:3-4)。神はご自分の御子において罪を処罰されました。御子がその罰を受けることによって私たちの償いをなし、それによって本来私たちに期待されていた律法の要求をも全うして下さいました。このようにして神の義の要求は満たされ、神への償いは全うされたのです。ここには主イエス・キリストの十字架の贖いの二つの面が現れています。すなわち私たちの律法違反ゆえの罰を受けて下さることによって神への償いを為して下さったという面と、本来期待されていた律法の要求を進んで全うして下さったゆえに与えられる罪の赦しと永遠の命の祝福を勝ち取って下さったという面です。そしてこのキリストの獲得して下さった義が私たちに聖霊によって転嫁されることによって、私たちもまた義とされるのです。「神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです」(IIコリント5:21)とある通りです。

 



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