祈祷会                               
ハイデルベルク信仰問答講解6

 「彼らにこう言え。『私は誓って言う。神である主の御告げ。わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜあなたがたは死のうとするのか』」(エゼキエル33:11)。

(1)罪の現実
 今日学びます第四主日(問9〜11)は、この人間の罪に対する神様の怒りと裁き、その神様の義なる御性質について語っています。ここでの問いはこれまでの罪についての教えを聞いていく中で、私たちの中に浮かんでくる疑問をそのまま問いかけていると言えます。中でも第9問「御自身の律法において人が出来ないようなことを求めるとは、神は人に対して不正を犯しているのではありませんか」と、第11問「神は憐れみ深い方でもありませんか」という問いは、このような問いが浮かぶことそのものの中にすでに私たち自身の罪が浮かび上がってくるような問いかけでもあるのです。本当に主イエス・キリストの愛の中に捕らえられて、そこから自らの罪の認識に促されるならば、このような問いは本来なら発することの出来ないはずのものです。律法に違反した人間が「そのような人間が守れないような律法を定めた神の方が不正だ」と糾弾したり、己れの罪ゆえに裁きを被るべき人間が、しかし神は「憐れみの神ではないか」と神の憐れみを権利要求するなどということは、それこそ傲慢不遜な態度と言わなければなりません。その意味ではこれらの問いは仮定の問いかけであると言えますし、またこのように問い返す心がすでに私たちの罪と悲惨の状態を示すものとしてここに掲げられているとも言えるのです。
さて、ともかく第9問では人間が守り得ない要求を突きつける神は不正ではないかとの問いかけが為されるのですが、それに対して「そうではありません。なぜなら神は人がそれを行えるように人を創造されたからです」と答えます。この「そうではありません」には二重の否定が込められていると言えます。一つは「神は不正だ」ということへの否定であり、今一つは「御自身の律法において人が出来ないようなことを求めている」ことをへの否定です。つまり、神はそもそも人の出来ないことを求めておられるのではない。むしろ事態は逆であって、本来「神は人がそれを行えるように」創造されたのです。それが前回学んだ「神のかたち」性ということですが、それから離れていったのはむしろ人間の方であり、神様との契約に基づく信頼を犯したという点で不正なのは人間の方ではないのかと言うことになるのです。ですから「にもかかわらず」と続くのです。ハイデルベルクはアダムの罪を語るにあたって「人が悪魔にそそのかされ、身勝手な不従順によって」と説明します。罪と堕落の原因は確かに悪魔のそそのかしにあるのですが、しかしそれは紛れもなく人間の身勝手な不従順のゆえです。本来神様に従う自由を与えられた人間は、それをまさしく「さかさま」に「身勝手に」用いたのです。

(2)神の怒りと裁き、神の義
続く第10問は、この人間の不従順と背反に対する神様の怒りと裁きがいかなるものであるかを教えます。神様御自身の義の要求は徹底した仕方で私たちの罪に対する裁きを要求します。「問10 神はそのような不従順と背反とを罰せずに見逃されるのですか。答 断じてそうではありません。それどころか、神は生まれながらの罪についても実際に犯した罪についても、激しく怒っておられ、それらをおびただしい裁きによってこの世においても永遠にわたっても罰したもうのです。それは『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守り行わない者は皆、呪われている』と神がお語りになった通りです」。
 しかしこのような厳しい義の要求は、神の憐れみの御性質と反するのではないかと第11問は問いかけます。これもまた本来人間が口にすることの出来ないはずの仮定の問いですが、これについては「確かに神は憐れみ深い方ですが、またただしい方でもあられます。ですから、神の義は、神の至高の尊厳に対して犯される罪が、同じく最高の、すなわち永遠の刑罰をもって体と魂とにおいて罰せられることを要求するのです」と答えられます。 
この問答を見る限り、ではどのようにして私たちの救いが起こり得たのかとの問いが浮かぶのではないでしょうか。神がこれほどの義を全うされるのであれば、私たちの罪からの救いは起こり得ないのではないか、むしろ神の憐れみがあってこその救いではないのかと。ところがこの問答が教えているのは、もちろん神による救いは憐れみによる救いであるのですが、しかしその根底にあるのは何よりも神の義による救いなのだということです。私たちはともするとこの神の義による救いの側面を忘れて、神の憐れみのみに目を留めがちです。しかし神の義はどこまでも貫かれ、そこにおいて確かに裁きがなされ罪への罰が下されたのです。決してこの罪の罰は回避されたのでも、うやむやにされたのでもないのです。では、この裁きはいつ、どこで、どのようにして下されたのでしょうか。それがあの二千年前のゴルゴダでの出来事、主イエス・キリストの十字架による贖いの死なのです。
ハイデルベルクが神の義は「体と魂とにおいて罰せられること要求する」と語る時、私の体と魂の真実な救い主(問1)であられるイエス・キリストを念頭に置いていることは明らかです。つまり、この神の義が求めるところの罪への裁きと罰は、私たちの上にではなく、神の御子、我らの贖い主イエス・キリストの上に下されたのです。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」(申命記27:26、ガラテヤ3:10)のですが、「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出して下さいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです」(申命記21:23、ガラテヤ3:13)とあるように、私たちの罪は主イエス・キリストが私たちの身代わりとなって神様の義の要求を全うし、罪への刑罰としての呪いをその身に引き受けて下さったことによって解決されました。そこでは神様の義はいささかもそこなわれることはなく、むしろその義と聖において救いを全うして下さったのです。そして主イエス・キリストがこの贖いを成し遂げて下さったゆえに、神様の御前に義なる者とされ、この義が今や主イエス・キリストを信じる私たちのものとされる。キリストの勝ち取って下さった義が、信仰によって私たちに転嫁され、神の御前に私たちもまた義なる者として立つことが許される。これが信仰によって義とされるということの意味です。私どもの命を得るために父なる神が、そして御子イエス・キリストが為して下さった御業はこのようなことだったのです。

 



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