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ハイデルベルク信仰問答講解5

 「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世記1:27)。
 
(1)罪の現実
今日の問答に進む前に第5問を振り返っておきましょう。ここには神様からの戒めが与えられていながら、それを行うことのできない人間の現実の姿が示されています。「わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」。ここには大変悲観的な人間についての見方があると言わなければなりません。しかし生まれつき悪へと心が傾いているというならば、その心はどこから来たのかという疑問が生じます。
 そこで第6問へと進むのです。ここでは「神がひとをそのように邪悪で歪んだものに創造なさったのですか」と問われます。この「歪んだもの」と訳されるのは「正反対なこと、さかさまなこと、本末転倒なこと」という意味の言葉です。ですから他の日本語訳では「神が人間をそんなに悪く、さかさまなものに、お造りになったのでしょうか」とされます。この「さかさま」という言葉は、人間の罪の姿をよく現した表現と言えるでしょう。聖書の教える罪は、神様とのあるべき関係が破れ損なわれてしまっている関係の概念ですので、当然のことながら、神様は人間をご自身との本来あるべき関係に生きる者としてお造りなったのです。けれどもこの神を神とする場所から引きずり下ろし、自らが神のようになってしまっている本末転倒した姿こそが人間の罪の現実と言うことになるのです。
 
(2)神のかたちへの創造
 そこで本来あるべき人間の姿とはどのようであったかを教えるのが第6問の答えです。ここには神に創造された人間の姿とその目的が記されますが、聖書の人間観の基本となるのは「神によって創造された人間」という理解です。それはさらに言えば「良きもの」としての創造であり、「ご自分にかたどって」の創造です。神様はそもそも人間をよきものとして、しかもご自身にかたどってお造りになったというのです。これは他の被造物に比べて破格の扱いであると言わなければなりません。それだけに人間が神様にとってどれほど重要かつ特別な存在であるかが分かるのであり、人間の根源的な価値や尊厳はこの「神のかたち」性から来るのです。この「神のかたちへの創造」をハイデルベルク信仰問答は「まことの義と聖における創造」と教えています。エペソ書4章には「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした」(エペソ4:23-24)とあります。ここに記されるのは神様がイエス・キリストの救いによって私たちを新たしたもう再創造の御業についての教えですが、そこで回復されるのが創造の時に与えられていた「真理に基づく義と聖」であるというのです。
 このようにして神のかたちに創造された人間は「自らの造り主なる神をただしく知り、心から愛し、永遠の幸いのうちに神と共に生き、そうして神をほめ歌い賛美するため」という目的を与えられていました。ここに人間の本来的な幸せの姿があるのであり、そこから離れてしまっている今の姿がどれほど悲惨な状態であるかが浮き彫りにされるのです。

(3)アダムの罪と全的堕落
 このように人間は本来神のかたちに創造されていたにも関わらず、その一方で悲惨の中にあり、邪悪の中にさかさまになっており、生まれもって悪に傾く性質を持っていると言われるのですが、この罪に腐敗した性質の由来について第7問はエデンの園における最初の人間たちの堕落の物語を語り、原罪について教えるのです。そしてこの罪への堕落が人間存在全体にまで及ぶことを教えるのが第8問です。
 原罪の教理は教会の歴史の中で様々に解釈されてきました。アダムの罪がどのように全人類に及ぶかということを時代の神学者たちは様々に論じ合い、ある人々は人間の自然の出生の中に遺伝的に伝わったのだと考えて人類の始祖という意味でアダムを捕らえました。しかしある人々は、アダムをそのような人類の始祖と言う意味よりも契約的な代表として捕らえ、アダムの罪を全人類の代表として理解しました。いずれにしても、アダムの罪が人間の堕落の始まりであったことは聖書が明確に語っているところです。パウロはローマ書5章でアダムとキリストを対比しながら、その結論として次のように述べます。「すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです」(ローマ5:19)。この「ひとりの人」アダムの罪が全人類の罪となったのと同じように、「ひとりの人」イエス・キリストによる贖いが、その全人類の罪からの救いとなったのです。
 人間が「どのような善に対しても全く無能であらゆる悪に傾いている」というのは「全的堕落」と言われる教えです。ここでの「全的」という意味は罪深さという程度の問題ではなく、むしろ領域の問題と言えるでしょう。罪の中にある人間は自らの関わるいかなる領域においても罪を犯しうる存在であると言うことであり、罪の影響を免れた部分をいかなる領域においても持ってはいないということです。
 このように創造された人間本来の姿と、罪の中に堕落した人間の姿を見てきました。そこにはまことに大きな隔たりがあることを見ました。それが人間の罪の姿であるということを私たちは心痛めつつ認めなければならないのです。けれどもこの悲惨の状態を見つめる時、聖霊は私たちのうちに働いて、この悲惨からの救いを真に求めさせ、イエス・キリストの十字架を仰ぐようにと私たちを促して下さいます。ひとりの人イエス・キリストが私たちの代表となって、本来私たちが受けなければならなかった罪の罰と呪いをその身に引き受けて下さり、そこにおいて本来私たちが守るべき律法の要求を完全に満たして下さって、まことの義と聖とを勝ち取って下さったのです。「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました」(Iコリント1:30)とある通りです。このキリストの贖いによってキリストの義と聖が私たちのものとされ、本来の創造された神のかたちに回復される。それが救いにおける「再創造」の御業なのであります。

 



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