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ハイデルベルク信仰問答講解4

 「さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」(ローマ3:19-20)。

(1)律法の三用益
 第3問から始まる第一部には「人間の悲惨について」という表題がつけられています。ちょうど前の第2問でみた「どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか」が今日の第3問から第11問にかけて記されています。そこで第3問の内容をみておきましょう。ここでは人間が自らの惨めさを律法によって知るのだと教えられます。前回、ルター派と改革派の律法理解の強調点の違いについて述べましたが、その点をもう少し整理しておきたいと思います。教会は古くからの律法の機能を「律法の三用益」として言い表してきました。第一の用益は「教育的」用益、第二は「政治的」あるいは「市民的」用益、そして第三が「規範的」用益と言われます。第一の用益は人間に罪を認めさせ、キリストの救いへと導く養育係としての益で、ルター派が最も強調した点です。第二の用益は通常の市民生活における公共倫理に通じる働きで、全ての人に対して益となるものです。そして第三の用益が、キリストによって救われた者に対して、神への感謝と服従、献身の生活へと促す規範として益で、改革派が最も強調した点であると言えます。ただ、これらはあくまでも強調点の相違であって、いずれかを排除するものではありません。ですから、ここでもまず律法の第一用益が取り上げられるのです。
 律法の用法についてローマ書7章を見ておきましょう(7:7-8)。ここで語られていることの前提は、神の律法は私たちに対する恵みの語りかけであるということです。私たちはしばしば旧約の神を裁きの神、新約の神を赦しと恵みの神として捕らえがちですが、聖書の神は旧新約一貫して恵み深い神であられます。その神が賜った律法もまた、私たちに対する恵みの語りかけに他ならない。けれども、その律法が人間に罪を知らせるとはどういうことか。本当に人間が神から離れた状態にあった時には、自分自身の為すことを罪と自覚し、実は自分がその罪の悲惨の中に死んでいる状態であることに気付いていたわけではありません。むしろ主イエス・キリストによって捕らえられ、その恵みの中に置かれた時にはじめて、かつての自分自身が罪の中に死んでいた全く惨めな存在であったことに気付かされるのです。これは神の恵みによる「気づき」です。パウロはエペソ書2章でこの消息を明らかにしています(エペソ2:1-3)。ここで自分の罪過と罪の中に「死んでいた」者の姿を、罪の中を「歩んでいた・生きていた・行っていた」と表現します。神の目には死んでいる者が、自分自身の自覚においては「生きて」いる。けれども神の前に生かされた時にはじめて、かつての「生きていた」と思っていた姿が実は「死んでいる」者の姿であったことに気付かされるのです。この気付きこそ、そのような私たちのために御子を賜った「あわれみ豊かな神」の愛を目指しているのです。

(2)律法の要約
続く第4問では律法が何を求めているかが語られます。「律法の中心は何か」を問う問いです。「律法」というのは幅の広い概念です。一番大きな所で言えば、律法は「神の言葉」とほとんど同義です。さらに少し狭めて言えば「創・出・レビ・民・申」のモーセ五書を指すことになります。しかし律法の中心となると第92問にあるように、それは出エジプト記20章に記される「十戒」を意味しています。
 けれどもハイデルベルク信仰問答は、この人間の悲惨を問う場面で律法の中心を論じるにあたっては十戒を示すことをせずに主イエス・キリストがマタイ福音書22章で語られた要約を記し、救われた者の感謝を問う第三部において十戒について論じるのです。人間の罪と悲惨を律法からの違反であると教えるにあたって、この律法を主イエス・キリストのお言葉によって要約するのは、ハイデルベルク信仰問答の大変優れた信仰理解であると言えるでしょう。私たちにとっての律法は主イエス・キリストが教えて下さった律法である。「何をせよ、何をするな」的な戒めである以上に、主イエス・キリストにおいて父なる神を愛し、隣人を愛することを求める律法である。何よりもその律法の完全な成就者としての主イエス・キリストご自身が立っておられる。この御方の前に立つ時に、私たちは自らの罪と悲惨を心底から覚えるのであり、またそこからの救い出しの恵みを覚えることができるのです。
 ですから第5問で、この神様の律法に適うことのできない自らの生まれながらの罪の性質を認めざるを得ないのですが、この自らの悲惨についての認識は私たちを絶望の淵に追いやるための認識ではなくて、律法の要求を私たちに代わって満たして下さった主イエス・キリストを仰ぐ認識へと促されていくのです。

(3)律法論の勘所
 最後に、第5問から律法論の中で人間の罪について語られていきますが、これを学ぶにあたっての勘所を押さえておきましょう。それは第8問です。ここでは「私たちが神の霊によって再生されないかぎりは」私たちは罪の中に全的に堕落していると教えられるのですが、冒頭から述べてきたように、この問答はすでに御霊によってキリストの所有とされた者たちへの語りかけであることから、今私たちは「すでに神の霊によって再生されている」者として、この問いかけの前にいるのです。救われて初めて律法が分かり、救われて初めて罪が分かる。そしてそのことをくぐり抜けて私たちは主イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業がどれほど恵み深い出来事であったかを教えられ、その救いが今や私に与えられていること、私がキリストのものとされていることに気付かされるのであります。絶えずここから出発し、ここに帰ってくる。これが律法論の勘所なのです。

 



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