祈祷会
ハイデルベルク信仰問答講解3

「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロサイ2:3)。

(1)慰めの中での知識
 第一問では私たちの生と死を貫くただ一つの慰めは何かと問われ、キリストのものとされていることこそが慰めであると教えられました。そこで今日の第二問では「この慰めの中で喜びに満ちて生きまた死ぬために、あなたがどれだけのことを知る必要がありますか」と問われるのです。
 ここでまず注意しておきたいのは、この問いは、ただ一つの慰めを得るために何を知らなければならないかを問うているのではない、ということです。そうではなく私たちはすでにこの慰めの中に入れられている者として、その中で生きつつ、ますます主イエス・キリストのものとされていくために必要な知識が何であるかを問われているのです。そもそもこの慰めに入るために必要なのは私たちの知識ではなく、実にキリストの贖いの御業そのものであり、それはすでに主イエス・キリストの十字架と復活、昇天によって成し遂げられているのです。このことは、私たちが主のものとされることなしには決して知り得ないし、かつては知ろうともしなかった知識です。けれどもひとたび主イエス・キリストの恵みに与ったならば、私たちは、この成し遂げられた御業がどのような道筋でなされたことであったかを知ることが必要なのです。
 「信じること」と「知ること」はしばしば対立するもののように受け取られます。一方では「知識が人を高ぶらせる」と言われ、他方では「熱心さばかりで知識がないのは良くない」とも言われます。けれども第一回目の時にハイデルベルク信仰問答が信仰を「確かな認識」と呼んでいると学んだように、信仰にとって「知る」ということは不可欠な要素です。この時に大切なのは、これが自分自身を喜ばせるための知識ではなく、神様を愛することに向かうような知識であると言うことです。キリストの御業を知ることによって、ますますキリストを愛するようになる、そのような「知り方」が求められているのです。これは普通の知的手段で得られたり、経験によって得られるものではなく、ただ聖霊なる神様によってもたらされる知識です。そして自分に与えられた主イエス・キリストの恵みがどのようにしてもたらされたのかを聖霊によって知らされた時、そこでの知識は決して私たちにとって重荷となる知り方ではありません。むしろそれは感謝によって促されるような知り方なのです。

(2)福音から律法へ
 キリストの慰めに与って生きるために知るべきことは三つであると言われます。「第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」。ここでの「人間の罪と悲惨」「罪と悲惨からの救い」「救われた者の感謝」という三つの点は、この信仰問答全体の構造になっています。目次を見ていただきますと、全129問が「序」に続いて三部に分けられ、各々が「第一部 人間の悲惨について」(問3-11)、「第二部 人間の救いについて」(問12-85)、「第三部 感謝について」(問86-129)となっています。さらにこの三つの知るべき知識として教えられる内容は、使徒信条、十戒、主の祈りの解説であることが分かります。使徒信条については問20〜64、十戒については問92-115、主の祈りについては問116〜129にそれぞれの解説が施されます。これに教会の聖礼典に関する教えが加えられて全体が構成されているのです。
 「使徒信条・十戒・主の祈り」の解説をもって信仰問答の骨格とすることは、ハイデルベルクのオリジナルな考え方ではありません。むしろ教会のカテキズムの伝統は、この三つの文書の解説によって培われてきたのであり、その延長線上にこの信仰問答書も立っているのです。ただし宗教改革が古代のカテキズムの伝統を回復したと共に新たに重んじたのは、そこに聖礼典についての教えを含めたことです。ここには洗礼に与り、主の晩餐に与る者となるための教育というカテキズム教育の教会論的な目的がよく現れていると言えます。ハイデルベルクの配列の特色で言えば、むしろ十戒を使徒信条の後、「感謝」の部分で論じることでしょう。十戒をカテキズムのどの部分で扱うかで、宗教改革の中のルター派と改革派の伝統に大きな違いが見られます。ルター派のカテキズムではまず十戒が扱われて、その後に使徒信条が扱われますが、改革派の場合は使徒信条が初めで、十戒が後になります。つまりルター派は「律法から福音へ」、改革派は「福音から律法へ」という順序になるのです。ここには両者の十戒の役割についての強調点の違いがあるのですが、簡潔に言えば、人間に罪を認めさせるための働きに強調点をおくのがルター派、救われた人間の生活の規範としての働きに強調点をおくのが改革派ということになり、ハイデルベルクはこの後者の伝統が最も色濃く反映されたカテキズムであるということになるのです。この点については十戒の部分でさらに詳しく学ぶことにします。

(3)自己奉献の知識
第二問が語る三つの知識が「罪・救い・感謝」という構造であることを見ました。この構造をよく見つめると分かってくることは、これが主イエス・キリストが私たちのために為して下さった御業に対応しており、さらにはこのことを聖書において最も丹念に教えた「ローマ人への手紙」の構造に対応しているということです。主イエス・キリストは罪と悲惨の中に死んでいた私たちをご自身の十字架の贖いによって救い出して下さり、この救いの恵みによって神の子としての祝福に生きる者として下さったのです。パウロもローマ書の1〜3章で人間の罪を、3〜11章で主イエス・キリストによる救いを教え、12章1節「そういうわけですから、兄妹たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です」から始まって最後の16章までで救われた者の生活について教えています。
 このように自分自身の罪を知り、そこからの主イエス・キリストによる救いを知れば、もはやそこに留まっていることは出来ず、この救い主のために生きる感謝の生活を進むことは当然の道であるとパウロは教え、この教えの道筋をハイデルベルク信仰問答は歩んでいるのです。ですからここで求められている知識は、主に自らを捧げていくための知識、自己奉献の知識ということになるのです。

 



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