祈祷会                               
ハイデルベルク信仰問答講解2

「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです」(ローマ14:7-9)。

(1)ただ一つの慰め
 第一主日の第一問は、ハイデルベルク信仰問答全体の構成では「序、ただ一つの慰め」と表題が付けられている部分です。信仰問答書が最初にどのような問いから始められるかは、とても重要なことです。しばしばハイデルベルクと比較されるのはウエストミンスター小教理問答ですが、その第一問は次のように始められます。「問一 人の主な目的は何ですか。答 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」。このように最初に人生の目的を問う順序はカルヴァンの「ジュネーヴ教会信仰問答」の「問一 人生の主な目的は何ですか。答 神を知ることであります」という問答以来の伝統ですが、ハイデルベルクの唯一の慰めを問う問い方は、ウエストミンスターに比べてしばしば「主観的・個人的・内面的」と評されてきました。日本の教会でハイデルベルクが親しまれる一つの理由がこの点にあるのかも知れません。しかしこの問いの中身を学ぶならば、決してそのような評価があたってはいないことに気づくでしょう。むしろこの問いは主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの御業が創造から終末という光の中でどのような意味を持つのかを示す大きなスケールを持っているのです。

(2)生きるにも死ぬにも
 「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」と問うのに対して、まず次のように答えられます。「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生さるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。冒頭の「生きるにも死ぬにも」では人の一生を貫く慰めが問われています。普段の生活では慰めになっても、死の時に際しては役に立たないとか、死ぬ間際になってのみ力を発揮する慰めを問うているのではないのです。村上春樹という小説家がある小説の中で「死とは生の対極にあるのではなく、その延長にあるのだ」と言いましたが、まさにそのような延長線上で絶えず慰めになるものは何か、と問うているのです。しかもそのような慰めは二つも三つもあるはずのものではありません。本当に人の生と死における慰めとなるべきものはただ一つであるはずです。また他人から借りてきて事足りる、その場限りの気休めではなく、「あなたの慰め」、「私の慰め」と言うべきものが問われているのです。
 この「あなたの慰めは何か」という問いに対して、「わたしはわたし自身のものではない」ということが慰めだと答えられます。これはどういう意味でしょうか。後に続く問いの中で、この慰めの中で生き、また死ぬためには自分の罪と悲惨を知らなければならない、と教えられているところから、この慰めが罪と悲惨と対極のものであることが分かります。そしてこの罪と悲惨の姿こそ、「わたしはわたし自身のものだ」という生き方でありました。それは神に背を向けて罪と悲惨の中を生きる人間の姿、頼るべきものを持たない孤独な人間の姿です。しかしそこから「わたしはわたし自身のものではない」という人生の転換が起こる。ではわたしは誰のものなのか。それが「体も魂も、生さるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」に続くのです。体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしがわたしの救い主イエス・キリストのものとされていること、もはや孤独に一人で立っているのではなく、キリストの恵みに与って、キリストのものとされて生きていく。これが唯一の慰めだと教えられるのです。

(3)仲保者キリストの御業
 ではわたしをご自身のものとして下さるために救い主イエス・キリストは何を為して下さったのかという仲保者キリストの御業が三つの点から教えられます。第一に「この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました」。第二に「また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです」。第三に「そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜び、またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」。
 ここで述べられている三つのことは、神と人との間の恵みの契約の仲保者なる主イエス・キリストが、私たちを「救い、保ち、全うして」下さるご自身の御業についてですが、同時に主イエス・キリストの私たちに対する「過去・現在・未来」の御業とも言うことが出来るものです。まず第一のことは主イエス・キリストがすでに成し遂げて下さった罪からの贖いです。第一ペテロ1:18-19に「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです」とあるように、主は十字架の上でご自身の尊い血を流して下さったことにより、罪と悲惨の中にあった私たちの罪を完全に贖い、悪魔の死の力から解放してくださったのです。このキリストの贖いの完全さの故に、この救いに与った者は今まさに神の恵みの中で守られ、保たれることを教えるのが第二の点です。ローマ8:28に「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」とあるように、神の摂理の御手は私たちを守り、生きるにも死ぬにも、一日一日と起こる全てのことを私の救いのために益としてくださるのです。しかも、このキリストの御業は今だけでなくこれから後においても働き続けます。この私の救いを聖霊が保証し、その救いと永遠の命の約束を全うしてくださるばかりか、私たちが主イエスのものとして、この方のために生きる者とし、そのような生き方を心から喜ぶ者とし、そのような生き方に相応しい者へと整えて下さるのです。これが第三の点であり、いわゆる「聖化」の教えです。
このようにハイデルベルクの第一問が私たちがキリストのものとされていることを唯一の慰めであると教える時、そこでは私たちがそのことを知ったことに満足するのではなく、そのキリストのために生きる者となるところまでをその教えの射程に収めていることがわかります。つまりこの信仰問答は、私たちが私たちのために贖いを成し遂げて下さった主イエス・キリストのために生きることへの励ましと促しを与えるために記されているのです。その意味では冒頭に紹介した人生の目的を問う問い方と同じ響きを持つ問答であることが分かります。私のためにキリストは十字架の贖いを成し遂げて下さった。だから私はもはや私自身のものでなくキリストのものであり、私の人生もキリストのための人生、神の栄光のために生きる人生であると教えられます。学ぶ者から生きる者へと導かれていく。そのように生きる力のない私たちに御霊が働いてくださる。キリストのものとして生きるための具体的な力を御霊が豊かに与えてくださるのです。



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