五十音順主題説教その8  2020/07/12
『苦しみ』

詩篇119:71
 
 7月第二主日の夕べを迎えています。先週の九州、中部、信州の豪雨被害に加え、先週末から東京の新型コロナ感染者の増加など、心騒ぐ日々が続く中、また明日から新しい週が始まろうとしています。お一人一人の主の守りと顧みを祈り願いつつ、苦しみの中に伴ってくださる主のお姿を仰ぎたいと願います。

(1)「苦しみ」ということ
 五十音順主題説教の第八回、今晩は「く」で「苦しみ」です。大きなテーマです。そして難しさを伴うテーマです。軽率な態度で、興味本位な仕方で扱うことの許されない、重く厳粛なテーマです。しかし同時に、私たちが人生を生きていく上で必ず経験させられるテーマでもあり、それだけに聖書から聞き取っておくべき切実なテーマでもあるのです。
 多くの場合、人々が宗教に期待するものには「いかにして苦しみに会わずに人生を送れるか」ということがあるでしょう。しかし現実には苦しみに遭わずに一生を過ごすということは不可能です。それで次には「いかにして苦しみを最小限にとどめて、ダメージをすくなくできるか」が期待され、それでも苦しみに遭遇し、そのただ中に置かれる時には「なぜこのような苦しみが存在するのか。この苦しみにはいったいどんな意味があるのか」を問うということが起こってくる。古今東西多くの宗教がありますが、「苦しみ」を扱わない宗教はありませんし、それを扱えなければ宗教としての役割を果たすことができません。しかし問題は、それをどのように扱うかということでしょう。
 今晩開かれている詩篇119篇71節には、キリスト教信仰における「苦しみ」の扱い方が端的に示されています。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました」。私はこの言葉を読む度に驚きの感情を抱きます。「苦しみにあったことは幸せ」というのです。およそ不釣り合いな言葉です。苦しみにあわないことが幸せという価値観とぶつかり合うものです。ある人には反発を感じる言葉でしょう。この人は本当の苦しみを知っているのかと。しかし詩篇というのはユダヤ人たちの長きにわたる多くの苦難に満ちた歴史、そこでの人々の様々な経験の蓄積から生まれた言葉です。苦難の民である彼らの歴史が、しかもその中で神とともに歩んで来た彼らの歴史が語らせた言葉、それがこの71節なのです。
 この御言葉を読む度に思い出す詩があります。「まばたきの詩人」と言われた水野源三さんの「苦しまなかったら」という詩です。幼いころに掛かった赤痢の高熱から脳性麻痺を起こし、目と耳以外の機能を失った水野さんが五十音の表を瞬きで合図しながら作った詩は、虚飾を排したまっすぐで素直な言葉で、そのまま私たちの心を打つ言葉です。そんな詩の一つ、「苦しまなかったら」はこんな詩です。「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主なるイエス様が苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった」。

(2)御子の苦しみ
 水野さんは自分の経験した苦しみを、ただ自分だけのところに留めませんでした。「もしも主なるイエス様が苦しまなかったら」と思いを至らせる。これはキリスト教信仰において「苦しみ」を考える時に決定的に重要なことです。私たちは私たちの人生のあらゆる経験を、主イエス・キリストとの関わりの中で受け取っていく。ここにキリスト教信仰の一つの重要な核心があるのです。旧約聖書の預言書イザヤの53章は「苦難の僕の歌」として知られるものです。キリスト教会はここで語られる「苦難の僕」こそが、やがて来られた救い主イエス・キリストを語っていると受け取ってきました。使徒の働き8章のピリポによるエチオピアの宦官への宣教の場面がそのことの最たる例です。
 このイザヤ書53章4節にこうあります。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ」。ここで苦難の僕である「彼」が経験した苦しみは、「私たちの病を負い、私たちの痛みを担い」、「私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」ものでした。本来受けるはずのない苦しみを代わりにその身に担われた。ここに御子イエス・キリストの苦しみがある。そしてこの私たちの身代わりとしての苦しみのゆえに、私たちは赦され、受け入れられ、生かされる者となった。以来、私たちが人生で味わういかなる苦しみも、この御子の苦しみと無関係ではないのです。

(3)御父の苦しみ
 詩篇119篇で詩人が「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした」と歌ったとき、彼はこの苦しみが神との交わりの中で起こっていることだと受けとめました。それで「それにより、私はあなたのおきてを学びました」と告白するのです。聖書はしばしば苦しみが神からやって来ると語ります。119篇75節でこう言われるとおりです。「主よ、私は知っています。あなたのさばきが正しいことと、あなたが真実をもって私を苦しめられたことを」。また神が苦しみを与えること、あるいはそれを許容していることの最たる例は旧約聖書のヨブ記です。しかしそこでも神はいたずらに人を苦しめるのではない。単なる暴力ではない。苦しみの経験の中でいっそう深く、濃厚に、緊密にされていく神との交わり、人格的な交わりがあるのです。
 主なる神は苦しみを知らない神ではありません。私たちを遊び半分で苦しみの中に放り込んで、右往左往する様を見て興に入るような悪趣味な暴君ではありません。むしろ主は私たちの苦しみを知るお方であり、何よりも私たちの救いのために御子を十字架に付けるほどの苦しみを知った方でもあるのです。イザヤ63章9節でこう語られます。「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その義とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった」。私たちが苦しむ時、いつも主も苦しまれた。私たちの苦しみを知るお方、私たち以上の苦しみを知るお方、私たちのための苦しみをその身に負われた方、そうして私たちを贖い、背負い、担われる方。この神が私たちとともに今日も歩まれる。この神にいよいよ信頼する者とならせていただきましょう。



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