五十音順主題説教その7    2020/06/28
『からだ』

Iコリント12:27
 
 6月第四の主の日が祝福のうちに終わろうとしています。共に集まることを再開して二度目の礼拝、そしてお昼には新会堂建築起工式を執り行うことができました。主の祝福が注がれていることを覚え、感謝と賛美を献げたいと願います。この感謝と賛美を携えて御許に近づき、この夕べにもともに礼拝をお献げしましょう。

(1)「からだ」で考えるということ
 五十音順主題説教の第六回、「か」行に入って今晩取り上げるのは「か」、「からだ」です。夕拝を献げ続ける中でこれまで幾度となく経験して来たことの一つに、朝の礼拝で聴いた御言葉と夕拝で聴く御言葉が不思議と見事にシンクロするということがあります。わざわざそうしたわけでないのですが、時々こういうことが起こる。今日の朝拝はローマ書12章1節から「あなたがたのからだを神に献げよ」との御言葉を聴いたところでした。
 私は常々、信仰における「からだ」、「身体性」の大切さを覚えています。信仰の事柄を「からだ」で考える。抽象や観念の世界でなく、生身のからだのリアリティーで捉えることの大切さを思うのです。どうしてこのように考えるようになったのか、自分の経験を振り返り、遡ってみると、やはり大きなものとして「松原湖バイブルキャンプ」の経験があることに気づかされます。特に16歳でキャンプのグランドワーカーの奉仕に参加して以来、主イエスを愛すること、主イエスに仕えること、主イエスに献げることを文字通り身体で学んで来たのでした。天に召された宮村武夫先生が、あるとき「勝牧師の中に流れているのは、松原湖で培われたキャンプ的霊性だ」と言ってくださったことがありました。それは私にとっては忘れられない言葉になっています。
 もう一つ「からだ」ということで私にとって大切なテーマは、やはり「教会」です。教会を「キリストのからだ」として考える。このことをいつも受け取りながら歩んで来たことの一つのまとめが、『教会に生きる喜び』という書物です。ここでもポイントは「リアリティー」ということです。教会をリアルに受け取り、教会を愛し、教会に仕えることをリアルな身体のこととして来た、そんな歩みを続けて来たように思うのです。そのようなことで、今晩「からだ」ということをと考えるにあたって与えられている御言葉は、コリント人への手紙一12章27節です。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」。

(2)一つのキリストのからだ
 これまで幾度となく申し上げてきていることですが、私はパウロが教会を「キリストのからだ」と呼んだのはまことにすぐれた卓見だと思います。そこでは教会がキリストに結び合わされて生かされているいのちの交わりであること、キリストにあって一つとされていること、またキリストにあって多様であることなど、教会の本質が見事に表現されていると言えるでしょう。
 教会が一つとされていることについて、12章13節はこう言います。「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです」。一人ひとり生まれ育ちも主に導かれるいきさつも、持っている資質や能力も社会的な立場も、誰一人として同じではない多種多様な人々を一つのキリストのからだに結び合わせるもの、それは互いの利害や関心の一致、誰かの熱心やカリスマによる求心力などというものではなく、私たちのうちに住んでいてくださる聖霊の御業、聖霊による愛の絆によるものだというのです。このことをパウロはガラテヤ書3章26節から28節でこう言っています。「あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」。

(3)多様なキリストのからだ
 パウロが教会を「キリストのからだ」と呼ぶ時、恐らく一つであること以上に表現しようとしたことは「多様である」ということでしょう。一コリント12章の扱い方にもこの点が現れているように思います。12章22節から27節。「それどころか、からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです。一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ばれるのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」。
 かしらなるキリストに結ばれた教会は、そこに与えられている豊かな賜物の多様さを喜び、ひとりひとりの存在を尊びながら、ともに成長していくキリストのからだです。そこでは誰もが尊ばれ、誰もが不要とされず、誰もが排除されない。誰もが互いを必要とし、互いに愛し合い、仕え合い、助け合うことで成り立つ交わり。父なる神によって召され、かしらなるキリストにつながれ、聖霊による愛の絆によって結ばれたいのちの交わり。それがキリストのからだの姿です。そうであればこそ私たちが目指すのは、教会の中に賜物が豊かに溢れれば溢れるほど、それぞれの存在が尊ばれていくようなキリストのからだ。ほんの小さな痛みでもからだ全体がその痛みを共有するような血の通ったキリストのからだ。ひとりの人をキリストのもとにお連れするためには、みんなで床を担いで、屋根にまで上ることをいとわない。すべての器官が愛に動かされ、全身に汗してひたむきに励むキリストのからだ。たったひとり孤立してある器官ではなく、からだ全体に繋がることによってはじめて命を宿す、そのようなキリストのからだなる教会の姿です。



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