五十音順主題説教その4  2020/06/14
『栄光』

イザヤ6:1-5
 
 6月第二の主日の夕べを迎えました。来週からいよいよ教会に集まっての礼拝が段階的に再開しますが、すでにお知らせしているように第一段階の間は夕拝はまだ集まることを控えてオンラインでの配信のみで続けられます。共に集まる時を見据えながら朝に夕に礼拝をささげるという私たちの姿勢を、これまで同様に続けていきたいと願っています。

(1)栄光
 五十音順主題説教の第四回の「え」は「栄光」です。主題説教に取り組むと決めた時から、そして「え」を「栄光」と決めた時から分かっていたことですが、夕拝の一回の説教で取り扱うにはあまりに大きなテーマです。「栄光」とは聖書において神のご存在の本質に関わるものであり、また神に帰するものであり、そしてそもそも私たちがそう易々とは口にすることのできない、畏れ多いものでもあるからです。しかしそれにも関わらず栄光の神が御自身を私たちに明らかにしてくださったゆえに、私たちは畏れつつも大胆に主の栄光を仰ぎ、その輝きのもとに礼拝をおささげすることが許されている。このことを今晩は旧約聖書イザヤ書6章に記されたイザヤの召命の場面から学びたいと思います。
 1節から4節。「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。』その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた」。イザヤは「高く上げられた御座に着いておられる主を見た」という、主の臨在のもとでの圧倒的な経験をします。さらに主に仕える天的な存在である「セラフィム」の呼び交わす声を聞きます。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」。「聖なる、聖なる、聖なる」と三度繰り返されるところに、主なる神の完全無比なる存在と、父・子・聖霊の三位一体の臨在が伝わってきます。そしてセラフィムは叫びます。「その栄光は全地に満ちる」。主なる神がその臨在を現されるところ、そこに栄光もまた満ち溢れる。「栄光」が神ご自身と深く結び付いたものであることが示されます。
 この神の栄光に満ちた臨在の前に立ったとき、イザヤは言うのです。5節。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」。神の栄光。それは神ご自身の圧倒的な臨在を現すとともに、その前に引き出される私たち人間の罪と汚れをも露わにします。本来、その前に立つことが出来ないもの。それが神の栄光の本質です。このことをまずよく心に刻みたいと思うのです。

(2)御子の栄光の輝き 
 私たちが本来その前に立つことのできない神の栄光。しかしそれが私たちのもとに来てくださいました。ヨハネ福音書1章14節。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」。御子イエス・キリストの受肉の出来事、それは神の栄光が脆く弱い土の器を身にまとって私たちのもとに来てくださったという、驚くべき出来事なのです。ですから今や私たちは恐れおののきつつも、しかし御子イエス・キリストのもとに近づき、この方を通して神の栄光の輝きを礼拝することができる。ヘブル書1章3節がこう記す通りです。「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます」。
 しかし御子イエス・キリストにおける神の栄光は、逆説に満ちています。なぜなら十字架の苦難と死を通して現される栄光だからです。ヨハネ福音書は繰り返しこのことを私たちに示します。受難の日々の始まりの12章23節で、主イエスは言われました。「人の子が栄光を受ける時が来ました」。さらに十字架を前にした主イエスの父なる神に献げられた大祭司の祈りにおいては、1節で「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」、4節で「わたしに行うようにと、あなたが与えてくださったわざを成し遂げて、わたしは地上であなたの栄光を現しました」と祈られるのです。主イエス・キリストにおいて現された栄光がどのようなものであるかをこそ、私たちは深く心に刻みましょう。
 
(3)この身をもって神の栄光を
 こうして本来は直視できないほどの神の栄光、しかし御子イエス・キリストにおいて私たちのもとに現され、しかも十字と復活において頂点を迎えた栄光を、私たちによって現すようにと御言葉は招きます。パウロはIコリント6章20節で「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい」と言い、同じく10章11節ではこう言います。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」。この神の栄光を、この私のからだで、この私の食べる飲むという日常においてと。実に驚くべき勧めです。
 本来、私たちは神の栄光の御前には立ち仰せない者である。にもかかわらず主は今、そのような私たちを通してご自身の栄光をあらわし、ご自身をほめたたえることをよしとしてくださっているのです。このことを踏まえて初めて私たちは、ウェストミンスター小教理問答が言い表したように、私たちの人生の最高の目的を「神の栄光を現し、永遠に神を喜ぶ」とすることができるのです。かつては神を知らず、己の栄光を追い求めていた私たちが、今や私を生かし、私を愛し、私を救ってくださった神の栄光をたたえて生きる者とされている。しかもこの貧しい身をもって、しかも「食べるにも、飲むにも」というありふれた日常を通して。そうであるならば、精いっぱいのものをもって主の栄光を現す生活を送らせていただきたいと願います。家庭で、職場で、地域で、人々との関わりの中で、そしてこの国で、私たちはその生活のただ中において神の栄光をたたえて生きる。光の源なるキリストの輝きによって照らされ、その輝きを反射させながら、「世の光」として生きる。そのように神をたたえる歩みを果たさせていただきましょう。

 



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