五十音順主題説教その2   2020/05/31
『いのち』

創世記2:7
 
 5月最後の日曜日、そしてペンテコステの主日の夕べを迎えました。今夕も主の御前に進み出て礼拝をささげ、主の御言葉から力をいただいて明日から始まる6月の歩みへスタートを切りたいと思います。

(1)人のいのち
 先週からスタートした五十音順主題説教。「アーメン」に続く今晩は「い」で、「いのち」です。とても大きなテーマであり、またとても大切なテーマです。いのちは私たちの存在の根拠です。いのちがあって私はここに存在している。またいのちは私たち一人一人のかけがえない尊厳と関わります。あなたの価値、あなたの尊厳の根拠。それはあなたのいのちにある。さらにまたいのちは私たちの日々の生活の根源です。今日もいのちがあって私は生きている。食べる、飲む、話す、歌う、立つ、座る、歩む、考える、悩む、愛する、あらゆる生きることの営みはいのちがもたらすものです。そしてこのいのちがあって私たちは今日もこうして神さまを礼拝する一日を過ごしてくることができました。
 このいのちについて教えられていくにあたり、まず心に留めたいのが創世記に記される人間の創造の出来事です。創世記1章では人間の創造が「神のかたち」として記されるのに続いて、2章では人間の創造が「いのち」との結びつきの中で描き出されています。その中でも特に中心になる御言葉が今日の2章7節です。「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」。ここには、聖書が示す「人間観」すなわち人とは何者か、という大切な事柄が描き出されています。まずは「神である主は・・・人を形造り」とあるように、人は神によって造られた存在だということです。次に「その大地のちりで」とあるように、人は大地のちりから形造られた存在だということです。「神によって」ということと「大地のちりから」という、二つの面をよくとらえることが大切なことでしょう。そこには私たち人間という存在の尊さと脆さ、高貴さと卑小さとが示されています。このどちらかしか見ない、あるいはどちらも見ないとき、私たちは自分自身を見失ってしまいます。神の前に生かされている尊さやかけがえなさを知らず、自分を愛することなしに矮小化するか、他のいのちあるものの尊厳を忘れ、畏敬の心を失って、驕り高ぶりの中に肥大化するかに陥ってしまうでしょう。

(2)いのちの息
 さらに2章7節で心に留めたい表現が次の言葉です。「その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった」。人が生きるものとなるために必要なもの、それが「いのちの息」でした。ここで「息」と言われる言葉は、他では「霊」とも訳されます。人が生きるものとなるために、神さまが吹き込んでくださるいのちの息。そこには人間が霊的な存在であることが証しされていると言ってよいでしょう。神さまが吹き込んでくださるいのちの息、神の霊、それは人間を人間たらしめるに決定的なものであり、しかも人が神さまとの生きた交わりの中で生きる存在であることが示されています。
 創世記が描き出す光景を想像してみてください。大地のちりから形造った人に、神さまが顔と顔とを合わせるようにしてその鼻にいのちの息を吹き込まれる。私は生まれたばかりの赤ちゃんにお母さんが顔を近づけ、おでこをくっつけるようにして、目と目を合わせ、その存在を愛と喜びの中で受け入れている、そんな姿を想像します。私たちはいのちの大切さ、いのちの尊さというものを、この神によって吹き込まれたいのちの息との結びつきの中でとらえることが必要でしょう。そのいのちがどれほど社会に有用か、役立つか、貢献するかというような、後付けの派生的な基準でいのちの大切さや尊厳さを図ることはできないし、あってはならないことです。むしろその存在の根源にある神さまとの関係においてこそ、いのちの尊さは確かめられるものなのです。
 
(3)いのちの回復と使命
 さらに「いのちの息」について考えるにあたって、今日がペンテコステ、聖霊降臨節であることの意義をも覚えたいと思います。ペンテコステの際にしばしば開かれる旧約聖書の御言葉に、エゼキエル書37章の枯れ骨の再生の出来事があります。その9節、10節。「そのとき、主は言われた。『息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。「神である主はこう言われる。息よ、四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」』私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立った。非常に大きな集団であった」。
 ここには主の霊による人間の再生が描かれる。人のいのちの回復の様が描き出されるのです。聖書は私たちのいのちを、単なる生物としてのいのち、心臓が動き、肺で呼吸をし、脳波が動いているという現象のみで見ることをしません。むしろ神の息、神の霊に生かされているかが決定的だというのです。このいのちの回復がペンテコステにおいて示されたことの大切な意味であり、また私たちが「いのち」を考える上で決定的に重要なことです。
 しかもこの神の息、神の霊に生かされてこそのいのちの価値、尊厳、その回復をとらえるとき、そのようにして生かされるいのちの使い道としての「使命」もまた明らかにされてきます。神にあって生かされたものとして、いのちあるすべてのものを尊び、敬い、神の御国のためにそれらに仕え、いのちが生かされる世界を建て上げていくことです。使徒パウロは使徒の働き17章のアレオパゴスでの説教において、こう語りました。25節。「神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられる」。いのちの息を吹き込まれて人は生きるものとなったと創世記2章は語りますが、いのちの息は人間だけのものではありません。同じ創世記7章のノアの洪水の場面の5節。「こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつノアのいる箱舟の中に入った」。また22節。「いのちの息を吹き込まれたもので、乾いた地の上にいたものは、みな死んだ」とあるように、他のいのちあるものたちもまた、いのちの息によって生かされた存在です。そうであればなおのこと、すべてのいのちあるものが尊ばれ、生かされる世界を主が私たちを通して建て上げようとしている。その大切な使命に召された私たちが、神の息、神の霊に生かされて、生き生きと生き、隣り人と生き、すべてのいのちあるものと生きていく。すべてのいのちを尊び、いつくしんで生きていく。そのようないのちの歩みを続けてまいりましょう。

 



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