朝拝(ガラテヤ書講解26) 2007/08/05
『イエスの焼き印を帯びて』

ガラテヤ6:16-18

 1月から朝の礼拝でともに読み進めてきたガラテヤ人への手紙を、この朝で読み終えることになります。そこで今朝はパウロがガラテヤの教会に対して熱い思いを込めつつ記した締め括りの言葉を通して、愛の手紙として記されたこの手紙の心を読み取っておきたいと思います。

(1)新しい人の基準(v.16)
 「ご覧の通り、私は今こんな大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています」と、自ら筆をとり、弱っている目を凝らしながら、ガラテヤの諸教会への最後の挨拶をしたためるパウロ。その彼が、律法に惑わされ、割礼を受けることで自らの救いを確かなものにしようとしていたガラテヤの信徒たちに向けて最後に書き送ったのは「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」という言葉でした。神によって新しく創造された人、もはや血筋や生まれ、守ってきた慣習、伝統、それらの集大成である旧約の律法から解き放たれ、何よりも主イエス・キリストの十字架による贖いの死によって罪赦され、罪の奴隷の状態から神の子ども、自由の子どもの立場へと移された者たち。それは神による新しい被造物だとパウロは言うのでした。その事実をもってパウロは今、結びの挨拶の言葉を記すことになります。16節。「どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように」。
「この基準に従って進む人々」とは、まさに十字架の贖いによって主イエス・キリストと一つに結び合わされ、このキリストにあって自由な者として生きるようにと新しく創造された人。それまでの古い人の生き方を捨てて、新しくキリストの十字架を拠り所とし、この十字架に根ざして生きる人のことです。しかもそれは決して観念的な生き方でなく、極めて現実的で具体的なリアルな生き方を意味しています。「生きる、歩く、進む」はいずれもそのような生の現実をとらえた言葉なのです。しかもパウロはここでキリストの十字架による新しい生き方を「基準」と言う言葉で言い表しました。「基準」とは「カノン」という言葉で元来「葦」を指す言葉です。葦は真っ直ぐに伸びる植物であることから、やがてそれは「測りざお」、「ものさし」を意味するようになり、そして後にはそこから転じて物事の基準、標準を指すようになっていったのです。キリストによって新しく創造された人には、その人にとっての新しい基準、標準があると聖書は教えます。キリストを信じて新しくされていながら、なお古い人のようにこの世の考え方、価値観に縛られて生きているならば、あるいは、そのような確たる基準を持たずにその場その場の場当たり的でどっちつかずの生き方をし続けることはもはやできません。私たちの人生に起こってくるあらゆる出来事をキリストの十字架を基準にして考え、判断し、生きること。それが新しい人の基準なのです。IIコリント5章15節から17節で次のように語られている通りです。「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。さらにパウロはこのようにキリストの十字架に結ばれて新しい人として生きる者こそが「神のイスラエル」であると述べています。それはすでに3章29節でこう語られていたことでした。「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」。ガラテヤのキリスト者たちが自分の体に傷を負ってまでなりたがった神の民イスラエルが、今、ただキリストの恵みによってあなたがたのものとされている。神の民の祝福は自分の努力や犠牲で勝ち取るものでなく、キリストによる新しい創造の賜物だとパウロは語るのでした。だからこそ、パウロは彼らに平安とあわれみを祈るのです。神が価なしにあわれんでくださり、恵みを施してくださる。そこに真の平安は訪れるのです。

(2)イエスの焼き印を帯びて(v.17)
 16節、18節が他のパウロの手紙と同様に結びの挨拶の体裁を取っているのに対して、その間に挟み込まれる17節はガラテヤ書の冒頭と同じく異例な書き方がされています。普通なら手紙の送り先に対する挨拶や安否を問う言葉が書かれるのですが、ここでは少々非難めいた響きの言葉が記されるのです。これもまたガラテヤ書の独特に記し方ということになるでしょうか。17節。「これからは、だれも私を煩わせないようにしてください。私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」。この言葉、なかなか難しい言葉です。特に文章の前半と後半の結び方が問題となるのですが、これらはどのような理屈によって結び合わされているのでしょうか。そのあたりに注意しながら読み進めてみたいと思います。まず前段の「これからは、だれも私を煩わせないようにしてください」という言葉ですが、ここでの「煩わす」とは「苦労をかける」、「面倒をかける」と訳すこともできますが、ガラテヤの信徒たちが一度福音によって救われながら、その教えを捨てて他の福音に惑わされ、走っていくことによってパウロが彼らを憂い、何とかもとの正しい福音に立ち返らせようと懸命になっている、まさにこの手紙をしたためるパウロの心持ちそのものがあらわれている言葉です。言い換えるならそれはIIコリント11章28節の「日々私に押しかかるすべての教会への心づかい」とも言えるでしょう。
 つまりパウロが「私を煩わせるな」と言うとき、そこでは「私をやっかいな面倒事に引き込むな、本来関わりのないはずの些末なことで煩わせるな」といっているのではないということです。むしろ「これからは」と言っているように、パウロにとって諸教会への心遣いは絶えず彼の切なる祈りの中にあることであって、自分が導き、生み出した教会が時に苦しみ、痛み、迷い、傷ついている、その姿によってパウロ自身も傷つき、悩み、涙し、祈る。その心に迫り来る痛み煩いは、彼の教会に仕えるしもべとしての本質に関わる事柄であって、決して単なる煩瑣な事柄ではありません。私たちのしばしば「こんなことで」と自らの負っている重荷を何か瑣末な事柄のようにとらえがちですが、しかしよくよく考えてみると、実は私たちの信仰生活を左右し揺さぶる事柄というのは、案外この瑣末なことがら生じていることが多いのではないでしょうか。こんなつまらないことを牧師に相談していいものか。こんな些細なことで悩む自分は信仰者としてあまりに未熟なのではないか。そういってまた落ち込んでいく。そういうことがままあるのです。ですからパウロはそういうやっかいごとを持ち込むな、と門前払いをしているのではない。むしろ彼はまさにそういう教会の傷み、信仰者たちの苦悩を知り、それを自らの身に担い、その痛みを自らの痛みとして痛む者として、「もうこれからは」と語るのでした。つまりパウロはこれまで自分は正しいところに立って、ガラテヤの信徒たちを「愚か者」と叱責し、これ以上こんなつまらないことで煩わせるなと一方的に断罪してきたのではない。神の御前に自らもまた傷を負いつつ、痛みを担いつつ彼らに語りかけてきたのであって、自分一人無傷なところに立っていることはできなかったのです。
そう考えてくると後段の「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのですから」という言葉の意味と、これの前段との繋がり具合がよく分かってくるのではないでしょうか。この身にイエスの焼き印を帯びている。これは実に生々しい表現です。「焼き印」と訳される「スティグマ」とは当時、奴隷の体に押し付けてつけた焼き印のことであり、それによってこの奴隷の主人が誰であるかが明らかにされたのです。またイエスの焼き印とは、キリストの福音ゆえに味わわなければならなかった苦難をも意味しています。実際にある注解者は、この言葉が、パウロのからだのあちこちに残っていた主イエスの福音宣教の故に受けた迫害の傷跡を指す言葉だとも説明してするほどです。確かにパウロはこれまでこのガラテヤ書において、すでに罪と律法の奴隷から解放され自由を与えられたと述べながら、その自由を肉の働く機会とせず、愛をもって互いに奴隷のように仕え合えと命じてきました。まさにパウロはそのように自らが語ってきた教えの実践として、自らがガラテヤの信徒たちのために苦しみを進んで担いながら、自らがイエスの奴隷としての焼き印を身に帯びて、まさに奴隷のように彼らに仕えていることを証明しているのです。つまりパウロにとって「キリストの焼き印を身に帯びる」とは、キリストゆえの苦しみをその身に担うことであり、それをもって自分が誰のものであるか、誰の所有であるのかを明らかにすることでもありました。パウロはこのことをIIコリント4章10節では「キリストの死をこの身に帯びている」と語っています。ここでもパウロの生き方は決して抽象的で観念的なものではなかったことが明らかにされます。パウロにとって教会に仕えること、福音に生きること、十字架を背負うこと、キリストに従うこと、隣人に仕えること、それらはいずれも義務や強制でなく、誤ったヒロイズムでもなく、ただひたすらキリストの十字架の死が促す具体的でリアルな、そして自由で主体的な生き方だったのです。
 パウロがこのように大胆に思えるほどの言葉遣いでこのことを言い切ることができた理由は何だったのでしょうか。それはガラテヤの信者たちを本当に愛しているのは自分だという強烈な自負があったからではないかと思います。すでに12節、13節でパウロはガラテヤの信徒たちに律法、割礼を要求する偽教師たちの本心を見抜いていました。彼らは一見、ガラテヤの信徒たちの救いのためというような言い方で彼らに律法の遵守を求めたのですが、実際にはそれはガラテヤの人々のためでなく、偽教師たちの保身のためであったことがすでに明らかにされています。彼らは結局自分たちのことしか考えていない。自分たちがユダヤ人たちから迫害を受けるのを避け、気に入られる振る舞いをしたいだけであり、そのための「だし」としてガラテヤの人々が用いられているに過ぎない。誰も彼らの救いを本気で考えたりはしていないことをパウロは見抜いています。だからこそ彼は一生懸命にこの手紙を書きながら、彼ら以上にあなたがたのことを思い、愛を傾け、そのためには自らが傷を受けることさえ厭わないほどにあなたがたを思って、実際にそれゆえの苦しみをこの身に負っているのほかならぬこの私パウロであり、パウロを通して働いておられるのはまさに十字架によって愛を示してくださった主イエス・キリスト御自身、ひいてはこの御子を遣わされた父なる神御自身であられるというのです。イエスの焼き印を身に帯びる。それはキリストのゆえの苦しみから逃げず、隣人のために進んでその苦しみを背負うことのできる生き方であり、それをもって私たちが神の子ども、自由の子どもとして生かされていることの確かなしるしなのでした。

(3)兄弟たちよ(v.18)
 こうして見てまいりますと、17節の言葉は一読するとパウロのガラテヤの信徒たちに対する叱責の言葉のようでありながら、実際には彼らのための苦しみをも担い、それをもってキリストの焼き印を身に帯びているとするパウロの愛に満ちた熱い言葉であったことが分かってまいります。そういう思いを抱きながらパウロは最後にこの手紙を次の言葉で締めくくるのでした。18節。「どうか、私たちの主イエス・キリストの恵みが、兄弟たちよ、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン」。この締め括りの言葉、二つの点に注目しておきたいと思います。まずこの手紙の締め括り方とほぼ同じ表現を用いるのがピリピ4章23節の「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように」であり、IIテモテ4章22節の「主があなたがたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように」であるということです。いまひとつはここでパウロがこのようないつもの締め括りの言葉を書きながら、そこに敢えてか、思わずか、ともかく「兄弟たちよ」との一句を入れたという点です。冒頭から異例続きの激しい手紙、ガラテヤの人々が震え上がってきたであろう叱責の手紙。その手紙がいよいよ終わるにあたって、パウロが用いた挨拶の言葉は、どの教会よりも深い親愛の情を抱いていたピリピ教会に書き送った挨拶、最晩年を迎えた彼にとっての「わが子」テモテに書き送った手紙と同じ言い回しであったのです。そして最後の最後に彼らに対して主イエス・キリストからの恵みを祈るにあたり、思わず「兄弟たち」と書き加えずにはおれなかったパウロの気持ちを察する時に、この手紙がやはりパウロの時に激しい憤りや厳しい叱責の言葉を記しつつ、しかしその本質において溢れるほどのキリストの愛に満たされた愛の手紙にほかならないと言うことができるのではないでしょうか。
 愛の手紙、それは通り一遍の関わりでは決して書き記すことのできない手紙です。ただ相手を突き放し、見限るのでなく、その相手の痛み苦しみを主イエス・キリストにあって引き受け、喜んで、進んで、自由なる者として寄り添い、関わり続ける者だけが語りうる言葉です。そしてその手紙が書かれうるのは、何と言っても私たちのために十字架の上で身代わりの死を遂げてくださった主イエス・キリストが、御自身の体に今も十字架の傷跡を刻みながら、私たちを御自身のものとしていてくださる、このただ一つの慰めがあるからにほかなりません。私たちのために十字架の傷を負い、罪の赦しと永遠のいのちを勝ち取り、神の子、自由の子としての特権を与えてくださった主イエス・キリスト。このお方の焼き印を身に帯びる者として、私たちもまた主の十字架を忍び、それゆえの重荷を負いながら、自由の福音をなお多くの方々に宣べ伝えるものでありたいと願います。

 

 



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