朝拝(ガラテヤ書講解25) 2007/07/29
『新しい創造』

ガラテヤ6:11-15

 いよいよガラテヤ書も大詰めを迎えました。今朝はこの手紙の締めくくりにおいて改めて取り上げられる、主イエス・キリストの十字架による新しい生き方ということについて、御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)自分自身の肉を誇る(v.11-13)
 11節。「ご覧のとおり、私は今こんな大きな字で、自分のこの手で書いています」。これまで口述筆記によってこの手紙を記してきたパウロが、ここに来て自分の手で筆をとり、この手紙を自らの手と言葉によってまさに締めくくろうとしている。そんな箇所についに至りました。形式通りの短い挨拶の後、すぐさま「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています」とこの手紙の読み手であるガラテヤの信徒たちに叱責の言葉を浴びせかけたパウロ。実に異例とも言うべき書き出しで始まったのがこのガラテヤ人への手紙だったのですが、この締めくくりにおいても通常なら送り先の教会の一人一人について懇ろな挨拶を語るところを、そのような挨拶も抜きにして、改めて自分で筆をとると、実に率直な言葉遣いで手紙の締めくくりの言葉が記されていきます。形式的なことにこだわってはいられない。単刀直入に書き始めた時に熱い思いが今も彼の心に燃えたぎっていたのでしょう。彼の思いはそのままその筆を伝わってその「大きな字」にあらわれていったのでした。
 そこで書き表された内容はこうです。12節、13節。「あなたがたに割礼を強制する人たちは、肉において外見を良くしたい人たちです。彼らはただ、キリストの十字架のために迫害を受けたくないだけなのです」。パウロはここであらためて1章の冒頭で語ったあの激しい言葉遣いを繰り返しているようです。ここでの「割礼を強制する人たち」とは1章7節で「あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしている」人たちであり、「もし私たちが宣べ伝えた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです」とさえ言われたユダヤ人クリスチャンでしかも律法主義的な教えを語る偽教師たちを指しています。すでに見てきたように彼らはただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じるだけで救われるという福音のメッセージを曲げて、ガラテヤ地方に住む異邦人キリスト者たちに割礼を代表とするユダヤ人の律法を守るように強制し、そのような行いによる救いを持ち込んで異邦人キリスト者たちを惑わしていたのです。このことについてパウロは教理的にも実践的にもそのような律法主義の誤りをきっぱりと語り、その主張を論破してきたのですが、ここに至って彼ら偽教師たちの心の奥に潜む本当に動機についに光を当てていくのでした。彼らがガラテヤのキリスト者たちに律法の行いを矯正する本当の理由、それは一つには「肉において外見をよくしたい」と言う思い、今一つはキリストの十字架のために迫害を受けたくない」という思いだったとパウロは指摘します。つまり彼らは心密かにユダヤ人であることを今だ誇りとし、また他人からよく見られたいという見栄と、迫害を受けたくないという恐れの心から、異邦人キリスト者たちに律法を要求していたのであり、結局の所それらは、ガラテヤの人々のためではなく全くもってユダヤ人キリスト者であった彼ら自身のためにであったということが明らかにされるのです。恐らく彼らはガラテヤの人々に、「ユダヤ人のようにならなければだめだ、ユダヤ人のように律法を守り、割礼を受けなければだめだ」といって彼らが異邦人であることをことさらに意識させ、ことあるごとに「だからあなた達の信仰はだめなのだ」、「信じるだけで救われるなどと説くパウロの教えに従っているからだめなのだ」、「もっと努力してユダヤ人に認められるようになれ」、「私たちのようになってはじめてユダヤ人たちにも受け入れられる一人前のキリストになれるのだ」などと言って、異邦人キリスト者たちを見下す視線の中で、彼らを煽り立て、不安にさせ、ユダヤ人と同じようになることを強いていったのでしょう。
 このような行動に走る彼らの心の内はいったいどのようなものだったのでしょうか。恐らく彼らはユダヤ社会の中で摩擦を起こさないキリスト者、むしろユダヤ人社会に媚び入って、迫害を避け、むしろユダヤ人たちにとって人畜無害でむしろ彼らのために役立つキリスト教であろうとしていたのではないかと思うのです。ですからユダヤ教を捨ててキリスト教に走ったとはいえ、それでもちゃんとユダヤ教徒のしきたりは守っていますよ、というポーズをとってユダヤ教を捨てたと言って人々から迫害を受けることを避けつつ、むしろ異邦人キリスト者に割礼を施すことによって形式的にはユダヤ教徒を作り上げることに貢献しているユダヤ社会に役に立つキリスト者であろうとしていたということではないでしょうか。このような姿はかつて日本的キリスト教精神を鼓舞した戦時中の日本の教会の姿を連想させるものです。過去においてだけでない。現代においても日本社会にとけ込み、社会に役立つキリスト教ということで、教会がこの世のしきたりや習慣、儀礼や慣習の名の下に異教的偶像礼拝を重んじ、福音の純粋性を失ってしまう恐れが身近にあることを覚えなければなりません。かつて日本民族は神から特別の祝福を受けた民だと言って憚らず、神社は宗教にあらずとして率先して神社参拝をし、朝鮮半島や台湾、アジアへの侵略の手先となり、その国にいる人々に日本人のようになることを求め、そのしるしとして神社参拝を強制した日本の教会は、まさにこのガラテヤ書におけるユダヤ主義者のキリスト者たちの姿だということにならないでしょうか。

(2)主イエス・キリストの十字架を誇る(v.14)
 しかしパウロはそのような肉を誇る生き方に完全に訣別した者としてこう語るのでした。14節。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」。ユダヤ人からよく見られたいと願い、しかし迫害を恐れ、主イエス・キリストの十字架を恥じとし、むしろ割礼や律法を誇りとして生きる彼ら偽教師たちに対して、パウロはむしろそれとはまったく正反対の生き方をここに示します。これこそがパウロがこの手紙を通して最も語りたかったこと、自らの手でしっかりと書き留めておきたかったことではないか。そんな思いが伝わってくる言葉です。自分には主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはならない。人々からは愚かと見られ、軽んじられ、蔑まれる卑しい卑しい主イエス・キリストの十字架。しかし自分はそれ以外に誇りとする持たない。主イエスの十字架のゆえの苦しみから逃れず、もはや人間的な誇りを拠り所とすることをせず、ひたすらキリストの十字架を誇りとして生きる。それがパウロが語る新しい人、自由の子どもたちの生き様だというのです。十字架の主イエスを誇る。これはパウロの伝道の生涯において一貫した姿勢でした。Iコリント1章22節、23節ではパウロはこう言います。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまづき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」。またIIコリント2章2節ではこうも語っています。「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです」。パウロにとってはキリストとともに死んだ以上、もはや一切のものはキリストとともに十字架につけられたのであって、いかなる誇りもキリストの十字架の前では色褪せ、いかなる恐れもキリストの十字架の前では消え失せてしまう。それが「キリストとともに十字架につけられ」、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きている」、そのような生き方、キリスト者の実存なのです。
 私たちはこの朝、このパウロの言葉の持つ響きをしっかりと聞き取っておきたいと思います。パウロはこの言葉を単なる人生論や教えとして語っているのではありません。ここでパウロが「彼ら」に対して「あなたがた」と言わず、「私たち」とも言わず、「私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と「私」と語っていることに注目したいのです。ここではもはやパウロはこの手紙の読み手に向かって教え、説いているというようなことではなく、本当に主イエス・キリストの御前にあって自らの生き方を深く見つめ、そこで主ご自身から鋭く問われているということなのです。本当にお前はわたしの十字架以外を誇りとしてはいないか。わたし以外の他のものを人生の拠り所とし、頼みとしてはいないか。わたしの十字架を恥じていないか。十字架だけでは不十分だなどと考えてはいないか。人前でわたしを証しすることを憚ってはいないか。人々を恐れたり、自らの行いを誇ってはいないか。そういう絶えざる問いかけを前にして、パウロはまず自らが主の御前において深く鋭く問われながら、「私には主イエスの十字架以外に誇るものが決してあってはならない」と自らに語りかけているのです。キリストの十字架を誇る生き方、それはこのように主の御前で繰り返し繰り返し自分自身の姿を問われ見つめられる中で生み出されてくる生き方であって、華々しく自分を誇る生き方とは対極のものであることを心に刻んでおきたいと思います。

(3)新しい創造(v.15)
 最後にパウロはこのようにしてキリストの十字架を誇りとする新しい生き方の始まりを次のように語りました。15節。「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」。キリストの十字架を誇る生き方、それは神によって新しく創造された人の姿だというのです。私たちはすでにこれと同じような響きを持つ言葉を5章6節で読みました。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」。ここで「愛によって働く信仰」ということをパウロは15節で「新しい創造」と言い直しています。つまり愛によって働く信仰、それは私の行いや私の努力、私のうちにあるものによって作り出されるものでなく、私たちの人生経験や志しの延長線上に生まれてくるものでもなく、まったく新しく、主イエス・キリストと出会い、キリストと結び合わされ、神の子ども、自由の子どもとされ、この神の子どもたち群れである教会の営みの中で養われ、聖霊の実を結びながら生きる、そのような歩みにおいて神によって与えられる全く新しい人の新しい生き様だということなのです。
 パウロはこの言葉を大きな字で記しながら、どんな思いを込めていたのでしょうか。またガラテヤの人々は手紙が朗読された後、実際にパウロがどんな字でこの言葉を書いたのかを見たことでしょう。そしてこのパウロの筆遣いから何を感じ取ったのでしょうか。あなたがどんな人でも、どんな過去を生き、どんな傷を持ち、どんな重荷を背負っていても、あるいはどんな成功を遂げ、どんな誇りを築き、どんな地位や富を手に入れていたとしても、そのようなことは神の御前では一切意味を持たない。関係がない。ユダヤ人のようになれなくても、割礼というしるしを身に帯びていなくても、人々の前に誇りとすることができるような経歴や業績を積み上げることができないとしても、それでもそれらはあなたの救いに何の影響も与えない。大切なのは「新しい創造」なのです。父なる神が御子イエス・キリストの贖いによって私たちを罪から救い出してくださり、聖霊によって私たちに与えてくださる新しい人生は、今までの人生のやり直しや繰り返しではない。主イエス・キリストにある新しい人生は、今、ここから新しく始められる神の創造の業です。無から有をおつくりになり、言葉をもってすべてを良きものとしてお造りくださった主が、私たちの人生にも新しいスタートを与えてくださる。大事なのは新しい創造。このすばらしい人生をぜひ皆さんにも歩み始めていただきたいと切に願います。

 



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