朝拝(ガラテヤ書講解24) 2007/07/22
『聖霊の種を蒔く』

ガラテヤ6:6-10

 今朝は聖霊の御支配の中で生きるキリスト者が、互いに愛し合い、仕え合う中で実践していく善き業について、御言葉が教えるところに耳を傾けていきたいと思います。

(1)良いものを分け合う交わり(v.6)
 私たちは先週、「おのおの自分の負うべき重荷を負いつつ、互いに重荷を負い合いなさい」とのパウロの言葉を通して教会における交わりの姿を考えました。聖書が教える教会の交わりの姿とは、このように互いの重荷を負い合うこと、そのようにして互いに愛し合い、仕え合うことだと教えられたのです。私たちはしばしば仕えることよりも仕えられること、愛するよりも愛されること、重荷を負い合うことよりも押しつけ合うことに陥りがちですが、主イエス・キリストはそのような連鎖を逆転させてくださいました。そして仕えられるよりも仕えること、愛されることよりも愛すること、重荷を押しつけ合うよりも負い合うことを、強いられてでなく、御霊の自由の中で進んで担っていく、そのような新しい道を私たちの前に開いていてくださるのです。
 このような生き方をさらに見つめていこうとするのが今日の6節以降の御言葉ですが、そこでは互いの生活の必要を担い合うことが挙げられ、その具体例として教会における御言葉の仕え人の生活を支えることを取り上げます。6節。「みことばを教えられる人は、教える人とすべての良いものを分け合いなさい」。ここで「すべての良いものを分け合いなさい」という言葉はいろいろな意味に理解することができるのですが、一番直接的に指しているのは生活の必要を満たすことに関わるもののことです。パウロ自身は伝道旅行の生涯においてしばしば天幕職人として自分も働いて糧を得ながら伝道していましたが、しかし原則としては教会の働き人の生活はそれぞれの教会が支えるべきと言う考えを持っています。コリント人への手紙などを読めばそのことははっきりしていますが、ガラテヤの諸教会に対しても改めてこのことを確認する必要があったのでしょう。しかしここでまず私たちが心に留めておきたいのは、教会と教会の仕え人、今で言えば牧師と言うことですが、教会が牧師の生活を支える、牧師が教会によって支えられるということを、単なる雇い、雇われる関係のように考えてはならないということです。教会の独特の言葉ですが、教会が牧師の生活のために支出するものを「謝儀」と言ったりします。また牧師職の慣習としてあまり謝儀の金銭的なことを口にしない、雇用条件のようなことは云々しないということがあります。教会は精一杯の感謝を表し、牧師も与えられたもので生活していくということです。しかしその一方で、働き人はその報酬を受けるのは当然のこととパウロも言うように、むしろきちんと「給与」と呼び、その条件についても教会が十分に配慮すべきということもあるでしょう。聖職者は清貧に甘んずべきといって、自分たちが十分な生活をしているのに、牧師たちに十分な給与が出せないということではいけませんし、一方で牧師たちも信徒たちが厳しい経済生活を強いられているのに、自分たちの生活を第一に考えるようなことはゆるされないことでしょう。大切なことはここでパウロが牧師と信徒との関わりを「御言葉を教えられる人、教える人」と語っているように、「御言葉」を中心に据えて考えるということではないでしょうか。本当に御言葉を大切にし、御言葉を聴くことに重んじる教会は、自ずから御言葉の奉仕者を大切にする教会になっていくでしょうし、御言葉の奉仕者もまた生活のためでなく御言葉のために働く者となっていくでしょう。牧師と信徒の関わりは、ただ単に互いの相性云々ということではなく、教会が神の言葉に聴き従う教会、御言葉に聴くことを大切にする教会であるかどうかで決まってくるのです。

(2)聖霊の種を蒔く(v.7-8)
 このように教会の奉仕者を支えることの大切さを教えるパウロの筆は、そこからさらに進んで私たちが善き業に励むということについて記していきます。7節、8節。「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から永遠の滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」。ここでまず扱われる事柄は、私たちが日々を生きていく上で行う様々な業について、しかもそれが何を動機とし、何を目的としてなされる業かということについてです。ここでパウロは人間のなす業について「種蒔きと刈り取り」という譬えを用いていますが、それはこの手紙の朗読を聞く人たちにとって極めて身近でわかりやすい譬えであったに違いありません。種を蒔けば刈り取りをすることになる。よい種を蒔けばよい実りを刈り取るし、悪い種を蒔けば悪い実りを刈り取る。そもそも蒔かなければ刈り取りはないし、蒔いた以上を刈り取ることもない。これはいろいろな意味内容に当てはめられる譬えですが、ともかく蒔くこともせずに刈り取ること怠惰さや、悪い種を蒔いてよい実を刈り取ろうとする悪意を抱く人間に対してパウロは「思い違いをするな、神は侮られるような方ではない」と警告し、その上で、行いの目的を「自分の肉のため」か「御霊のため」か、と問い、さらにその結果として「肉からは滅びを」、「御霊からは永遠の命を」刈り取ると教えるのでした。
 ここで「自分の肉のために蒔く者は、肉から永遠の滅びを刈り取る」とはどういうことでしょうか。それは自分中心の肉の思い、欲望を満たすための行いということでしょう。ここで先週に続いてルカ福音書で主イエスが語られた譬え話を見ておきたいと思います。ルカ12章16節から21節をご覧ください。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」。この譬えは直接には地上の富にしがみつく人間の罪を露わにするものですが、今日のガラテヤ書の教えと合わせて考えると時、この金持ちは自分の生活だけしか見ていない自己中心的な人物であることがはっきりしてきます。彼の周囲には恐らくたくさんの飢えた人々、貧しい人々、助けを必要とする人々がいたことでしょう。しかし彼の目にはそう言う人々の存在は全く映らない。ひたすら自分の欲望を満たすことが彼の人生なのです。そう言う彼を待ち構えていたのは死の現実でした。これこそ肉のために蒔き、滅びを刈り取る人間の姿と言わなければなりません。では御霊のために蒔くとはどういうことでしょうか。続く9節、10節を見ましょう。

(3)時のある間に(v.9-10)
 9節、10節。「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」。御霊のために蒔く。それは互いに愛し合い、仕え合うという主が教えてくださった新しい自由の教えに基づき、聖霊が結ばせてくださる実を用いながら、具体的に自分の傍らにある隣人に対して行う愛の業、善き業のことです。それが隣人に対してなす業でありながら、実は私たちの間にあってさらに豊かに御霊の実を結ばせてくださる聖霊のために種を蒔くことだと教えられるのです。「あの人のため」、「この人のため」と具体的な顔と名前を持つ隣人に仕えながら、しかしその人そのものを見る以上に、その人のうちにあって働かれる聖霊にお仕えし、聖霊の実りを自分も結んでいくために、御霊のために蒔く。それが主にある者の善き業のあり方だというのです。しかもそれは、やがての時の収穫を期待し、待ち望む中で続けられていく極めて地道な取り組みだということを覚えたいのです。さてあらためて9節、10節ですが、いくつか注意して読んでおきたいと思います。まず「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て刈り取ることになります」という表現ですが、この「飽いてはいけない」というのは、もう少し本来のニュアンスを汲むと「善を行うことで疲れ果ててしまわないように、失望してしまわないように」という意味です。「飽く」というと慣れてしまって、飽きてしまうという無気力さととらえられがちですが、むしろここでは善を行い続けて力尽きてしまうこと、その善が報われないことで疲れ果ててしまうこと、正しいことを行い続けても現実が善い方向に変わらないことで失望してしまうこと、そんな状態を表しています。確かに私一人の小さな業をいくら積み重ねても、一向に状況が好転しない、善かれと思って続けていることが、その通りに受け取られていかない、そんなときに私たちは倦み疲れ果ててしまうということがあるかもしれません。けれども聖書は「疲れ果ててしまってはならない、失望してはいけない」と私たちを励まします。
 ではどうすれば善を行うことに疲れ果てることのない信仰の歩みを続けていくことができるのでしょうか。御言葉はこう語ります。「失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります」。失望しないでいなさい。希望を持ちなさい。希望に生きることが私たちを倦むことなく、疲れ果てることなく、聖霊の種を蒔き続けるための秘訣だというのです。ここで「時期が来て」というのは、それぞれしている善い行いにはやがてそれがかなえられる、報われる時が来ます、というようなそれぞれのタイミングということではありません。そうではなくこれは「時が来れば」、つまりある決定的な意味を持つ時が到来する、その時には、あなたがたは大いなる刈り取りにあずかるのだ、という希望と約束の言葉です。そしてその「時」とは、やがて再び主イエス・キリストがお出でになる終わりの時、決定的な終末の時を指しているのです。主がすべてを最終的に仕上げてくださる終わりの時が来る。その時に私たちの蒔いた小さな小さな聖霊の種まきの業を主が覚えていてくださり、大きな大きな祝福にして刈り取らせてくださる。そこで「ですから、私たちは機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう」と勧められるのです。ここでの「機会のあるたびに」というのは先ほどの「時期が来て」と同じく「時」と言う言葉が使われていて、直訳すると「時のある間に」という言葉です。つまり主イエス・キリストが再びお出でになる決定的な時が来る、そしてその時には私たちが蒔く聖霊の種蒔きに豊かな刈り取りを与えてくださる。だからその時が訪れることを待ち望みつつ、希望を抱きながら、その時が来るまでの間、倦み疲れることなく、善に励もう、聖霊の種を蒔き続けようという呼びかけの言葉なのです。私たち主を信じる者にとって、この「時」の感覚は極めて重要なものだと言わなければなりません。主イエスは繰り返しこの時の大切さを教えられ、主が再び来られる時まで怠惰にふけることなく目覚めた者として生きること、光のある間に光の中を歩むべきこと、さばきの時が来るまでに福音の宣教に励むこと、時の間に善き業に励むことを私たちに教え続けておられます。私たちはこの時の価値を知り、今できるところから隣人を愛し、隣人に仕え、そうやって聖霊の種を蒔く業に励む者でありたい。「いつかまた」といって時を失してしまうことなく、「すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに」仕える者でありたいと願います。ここでパウロが「特に信仰の家族に」というのは、信仰者同士でしか仕え合わないという内輪向きの姿勢を言っているのではありません。すぐ傍らにいる神の家族に仕えることを抜きにして、遠くの人々に仕えることを云々することはできないということです。
 聖霊の種を蒔きながら、時に疲れを覚え、徒労感に苛まれ、意気消沈し、涙するようなときにも、それでも私たちはやがて主イエス・キリストが再び来られて、私たちに大いなる刈り取りの束を抱えさせてくださる。詩篇126篇で見たように、喜び叫びながらの刈り取りの時を迎えさせてくださる。その時を待ち望みながら、疲れ果てず、倦むことなく、希望を持って、聖霊の種を蒔き続けたいと思います。そうしてやがて終わりの時が来たときに、主は私たちに大いなる刈り取りの喜びで満たしてくださるのです。
 ホセア書10章12節。「あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる」。

 

 



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