朝拝(ガラテヤ書講解23)  2007/07/15
『おのおの負うべき重荷を』

ガラテヤ6:1-5

 いよいよガラテヤ書の学びも最後の6章、締め括りの箇所に入ってまいります。この朝は、御霊の実を結びつつ生きる私たちの隣人との関わりを、特に教会の交わりということに光を当てつつ御言葉から教えられていきたいと思います。

(1)御霊の人として(v.1-2)
 古くから教会が大切にしてきた教え、特に宗教改革の教会が重んじた教えに「教会の目印」という言葉があります。この印があるところにキリストの教会がある、真の教会と偽りの教会を識別する印という意味で語られた言葉です。そこで挙げられる印とは、第一に御言葉が真実に説教されているか、そしてそれが聴かれているかということ、第二は洗礼と聖餐という二つの礼典が正しく守られているかということ、そして第三に教会の訓練が正しく行われているかということです。教会の訓練というと耳慣れない言葉かも知れませんが、そこには教会が主のみからだに相応しく歩むために正しく御言葉によって教えられていく様々な教育の務めと、教会に入り込んでくる罪を正しく取り扱い、信者が罪を犯した場合に悔い改めに導くための教会の戒規の務めが含まれています。特に今日、この教会訓練の問題はとても大切なものであり、教会が罪の問題をきちんと取り扱うことが難しくなっているという現状があります。一方では教会の中で罪の問題が曖昧にされたままになっている場合があり、他方では戒規が互いを裁き合い、断罪するためのものとなってしまっていることがあるのです。しかし私たちは悔い改めと回復に導く愛のわざとしての教会訓練ということをしっかりと位置づけていかなければならないと思うのです。
 1節。「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい」。パウロはこれまで御霊によって歩み、御霊の実を結ぶ信仰者のあり方について述べてきましたが、5章での議論がどちらかというと信仰者の心の内側のあり様をとらえた言葉であったのに対して、6章に入るとその心の外側への現れ方を問題にしていくのです。その際にパウロが引き合いに出すのが教会における罪の取り扱いに関わるものでした。ここでパウロは教会の中で罪に陥った人の取り扱いについて三つの原則を示しています。一つ目は「柔和な心で」ということ、二つ目は「正してあげる」ということ、そして三つ目は「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけながら」ということです。柔和な心とはまさに御霊が私たちのうちに結んでくださる実として数えられているものでした。相手を懐に抱くような奥行きと包容力に富んだ心と言えるでしょう。そういう心で相手を正してあげなさいというのです。ただ相手の在り方を肯定することが愛と柔和ではない。時にはその罪がどれほど悲惨で神の御前に恐ろしく恥ずべきことであるかをしっかりと直視させなければならない、そういう厳粛な在り方が求められますが、しかしそれをもって相手を裁いたり、見切ったり、断罪するためではなく、あるいは興味本位や噂の種にするのでもなく、その人が本当に真実な悔い改めに導かれ、主の御前に取り戻されていくように祈り働きかけることが求められているのです。しかもその場合に「自分自身も誘惑に陥らないように気をつけつつ」と注意が促されています。私たちはしばしば「自分はあの人とは違う」、「自分はあんな罪は犯さない」と冷ややかな視線を浴びせかけることをしかねない驕り高ぶった者です。しかし聖書は私たち自身もまた誘惑に陥りやすい弱い者であることを忘れるなと釘を刺すのです。
 そしてこれらの結論として語られるのが2節。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい」。この御言葉は今年の教会の主題聖句である5章13節、14節とともに覚えておきたい御言葉です。要するに御霊の支配の中に生かされている私たち、その集まりである教会は罪の問題に直面した時に、律法の剣を振り回して互いに裁き合うのでなく、むしろ柔和という御霊の実を用いて、愛をもって互いに正し合い、その重荷を互いに負い合うのだというのです。ここでの「重荷」とは、罪の問題を指しているのですが、そのような他人の重荷を背負い込むのは面倒だ、他人のやっかい事には関わりたくない。罪を犯した人は自業自得なのだから、その刈り取りをすればよい。私はあのような人といっしょにされたくない。前からああいう人だと思っていた。罪が露わになった人を前にして、私たちはそんな心を抱くことがあるのではないか。そんな隠し取り繕うことのできない私の本心の部分においてこそ、御霊の実の実りが必要なのだと御言葉は教えます。そうして全うされるキリストの律法。それは裁き合う関係の対極にあるものでした。ヨハネ福音書13章34節。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。

(2)誇らず、裁かず(v.3-4)
 このような場合、なお私たちがよくよく気をつけておきたいのは、「正してあげる、助けてあげる、重荷を負ってあげる」と言う時に私たちの心に潜んでくる優越感、傲慢さ、誤った自己意識の問題です。しばしば私たちは一段高いところから相手を見下すようにして、けれどもそれが悟られないような立ち居振る舞いをすることがあるのではないか。それがまさに律法主義の生み出す大きな問題でした。パウロがなぜこのガラテヤ書の締め括り近くでこれらの問題を取り上げるのか。それは律法主義の問題が自分の行いによって自分を義とするために働くだけでなく、それをもって他人と自分の差別化を図り、自分の物差しで人を図り始め、裁き始めるということがあることを見抜いていたからでしょう。実際、ガラテヤ教会の中で誤った律法主義の教えに走った人々が、それをもって互いに裁き合うと言う現実があったようです。そこでパウロは冷静に自分自身を顧みることの大切さを教えます。3節、4節。「だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」。
 ここで思い起こされるのは、主イエスがかつて語られたたとえ話です。ルカ福音書18章9節以下をご覧ください。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。『ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者でなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません』」。ここに表れる律法主義の問題性を私たちはしっかりととらえておきたいと思うのです。私もまた同じ罪を犯す弱い罪人として、この目の前にいる罪に陥った兄弟の重荷を担うのであって、私が正しいから、私が強いから、私が愛の人だからそうするのではない。「御霊の人」と聖書が呼ぶ人の姿は、己れを誇る人の姿でなく、どこまでも罪人の自分を見つめ、自分の弱さを知り、それゆえに御霊の支配に明け渡し、互いに愛し合うようにとの教えに従ってひたすらに歩む人のことであって、そのようなお互いだからこそ、互いの重荷を担い合うことができるのです。

(3)おのおの負うべき重荷を(v.5)
 最後に5節を読みましょう。「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです」。ここでパウロは先の「互いの重荷を負い合え」と言う言葉とは対照的に「おのおの負うべき重荷がある」と語ります。この言葉に心を向けておきたいと思うのです。ここでの「重荷」という言葉は先の2節の「重荷」とは違う言葉が使われています。2節の「重荷」は罪の問題を指していましたが、ここでの「重荷」とはそれらを含めて教会の中で一人一人が背負っている様々な課題や労苦のことと言ってよいと思います。主イエス・キリストをかしらとし、聖霊の絆で結ばれた教会は、裁きの共同体ではなく、そのような互いの重荷を負い合う赦しの共同体なのです。互いに主にあって赦された罪人たちの集まりとして、互いの重荷を負い、罪の問題さえも自分たちの身に引き受け、その重荷を担っていく共同体です。しかしそれは何か互いにより掛かり合い、もたれ合うけじめのない交わりではなく、お互いがお互いを認め合い、尊び合い、建て上げ合う交わりであるということを覚えたいのです。そこで大切なのはお互いが自分と他人を比べないということでしょう。教会とは罪に対して時に脆い時があるのですが、その原因が自分と隣人との正しい関係を見失うことによる場合が非常に多いのです。ですからパウロも先の肉の行いのリストの中で「敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ」を挙げたのでしょう。人をうらやんだり見下したり、自分と他人の祝福を比べたり、苦労の重さを比べたり。そういうことから解き放たれていくことを祈り求めていきたいと思います。その場合、大切なのは、みんなそれぞれに背負っている重荷があるのだということを認め合うと言うことなのではないでしょうか。互いに重荷を負い合う交わりというのは、何かみんなが抱えている問題を吐き出して、積み上げて、その前で互いの傷をなめ合うということではないはずです。そうではなくて、黙っていてもお互いに背負っている重荷があることを思い合い、それでいて主を見上げて歩む姿に互いに励ましを受け、慰めを与え合う交わりであり、またひとたび罪の問題に直面した時には、その痛みを自らの身に引き受けるようにして互いにその魂の悔い改めと回復のために祈り労することを厭わない交わりです。それはまさにパウロがIIコリント11章29節で次のように語る姿といえるでしょう。「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまづいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか」。
 先日、ある牧師先生からお電話があり、教会の戒規執行についてのご相談を受けました。非常に難しい問題でしたが、私自身が思うところも述べて互いにひとしきり語り合い、最後に行き着いたところは、どのようなかたちであっても戒規を執行することには痛みが伴うと言うこと、その当事者はもちろんのこと、教会もそのことで痛みを負うし、何よりも牧師自身がそのことで自らを主の御前に深く問われることになる。その意味で無傷であることはあり得ないとお話ししました。しかしその痛みをともに担う信仰の決断が教会を真の教会として建て挙げていくのだと信じるのです。私たちは自分で自分の重荷を背負いつつ、しかしそれでいてたった一人でその重荷を担っているのではない。教会の交わりの中で取り立ててそのことを言わずとも互いが覚え合い、認め合い、祈り合っている。そうやって立っているお互いがあって初めて、互いの重荷を、罪の問題すらもともに引き受けて歩んでいく赦しの共同体。まさに「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」ことのできる共同体、それが教会の姿なのだということをこの朝、しっかりと心に刻んでおきたいと思います。

 

 



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